「そうなの、被疑者には娘がいるの? あ、そうか、被疑者ね」
「そうですよ、先生、被疑者死亡のまま送検されると思いますが・・・・・」
自分の雇い主にそう答えた青年は、赤いネクタイがグレイのスーツに似合っていない。センスが残酷なほどに破壊されているのだ。しかし、仕事は至ってまじめで、春実の期待を裏切ったことはない。
「だけど、先生ほどの人がどうしてこんな仕事を承けようとなさったんですか、国選弁護人なんて」
「この手の犯人には同情を禁じ得ないわ」
「幼女殺人犯にですか?」
驚きと意外性を表情に混ぜ合わせて、表情を造り出す。
「犯罪なんて、複雑な計算の結果よ、社会という方程式に因果を混ぜ合わせた結果ね、髪神の意志とでも言うべきだわ。何?私みたいな人間がそんな単語を言ったことがあまりにも意外かしら?」
「いえ・・・・・・・・」
青年は、言葉を失った。
「私は、ねえ、自分たちがいかにも正義漢ってカオをする人間が許せないのよ、マスコミとか検事、ケーサツによくあるタイプね」
雇い主、こと、財前春実弁護士は、青年に渡された書類を広げた。
「そう、・・・・え?辻口記念病院? 啓三のところじゃない・・・・」
その時、春実は美貌に狐を潜ませた。青年は雇い主の上目遣いに、何か憑きものが降りたのではないかと本気で錯覚した。
「わかったわ」
「え?」
顔の表面を剥ぎ取られたような奇妙な表情だった。春実はそんな顔に容赦なく言葉を突きつける。
「新しい仕事の件はキャンセル、用ができたわ。付いてきなさい、あなた秘書件、運転手でしょう?」
「え? 先生、あさま銀行の件ですよ」
青年の申し出を無視して、春実はハイヒールに髑髏の音楽を奏でさせた。
その音があまりにかまびすしかったので、春実の囁きを聞くことが出来なかった。
―――あの女、ぜったいに許せないわ!!
新釈『氷点』2009
キャスト
辻口陽子 :海崎照美
辻口夏枝:浅野篤子
財前春実:池上貴見子(25歳)
辻口啓造:三浦友数
辻口薫子:未定
村井靖夫:未定
急告!
この度、新釈『氷点』2009を発表することになりました。突然の報告になりますがくれぐれもよろしくお願い申しあげます。
『新釈 氷点2009 1』
青年がエンジンを踏むと、黒塗りの国産車はうなり声を上げた。それは生命の呼吸を思わせる。
背後で扉が締まると意志の強さを感じさせる女の声が聞こえる。
「谷崎君、啓三のところね」
「え? もしかして、辻口 ――――さんとお知り合いなんてすか?」
突然のことなので、敬称をつけることを忘れるぐらいだった。国選弁護人としてこの事件に係わろうとしていた矢先のことだ。そのために秘書兼、運転手である谷崎は、ある程度の情報を得ていたのである。
「啓三と彼の奥さんとは、幼馴染みよ」
「ということは、親友の娘を殺した犯人を弁護しようとしていたんですか?」
悪魔の笑みを浮かべて口を開く。
続きはクリック
『新釈 氷点2009 2』
啓三は、ただ黙って机の上にあるものを見つめていた。それは彼の家族のポートレイトだった。自分と妻である夏枝、そして、二人の前に長女である薫子が立っている。そして、その前にはお客用の豪奢な椅子が置かれ ――――。
その上には ―――――。
次期城主の視線は写真の中の聖域に注がれていた。それは、現在の彼がけっして見てはならないものだった。何故ならば、彼じしんの精神の健康を非常に害する危険を内包していたからである。 しかし、何十キロも走ったランナーが水を求めるように、愛娘の顔を探しあてていた。
「ルリ子!!」
続きはクリック
『新釈 氷点2009 3』
家族を見送り終わった夏枝はしばらく空を見ていた。蒼天という言葉はこのためにあるのだと思わせるくらいに、透けるような青空が広がっている。
――――これから、ずっとこうだといいわ。
自分に言い聞かせるように、空に視線を遣ると、人の背の二倍くらいはある板チョコのようなドアを閉めた。
玄関を入ると客人は正面にある絵画に魂を奪われることになる。キュビズムと言うべきか、それともシュールレアリズムなのか、大抵の客人は評価に苦心することになる。
長崎城主の邸宅ともなれば、客人の数は、普通の家の倍増しとなる。彼らは、この絵をどう批評しようかと頭を悩ませる。
ところが、彼らは総じて同じ感想を持つ。
それは、この絵が醸し出している圧倒的な幸福感である。
続きはクリック
『新釈 氷点2009 4』
「そうだ。学校戻らなきゃ ――――」
「陽子ちゃん!?」
まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!
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「そうですよ、先生、被疑者死亡のまま送検されると思いますが・・・・・」
自分の雇い主にそう答えた青年は、赤いネクタイがグレイのスーツに似合っていない。センスが残酷なほどに破壊されているのだ。しかし、仕事は至ってまじめで、春実の期待を裏切ったことはない。
「だけど、先生ほどの人がどうしてこんな仕事を承けようとなさったんですか、国選弁護人なんて」
「この手の犯人には同情を禁じ得ないわ」
「幼女殺人犯にですか?」
驚きと意外性を表情に混ぜ合わせて、表情を造り出す。
「犯罪なんて、複雑な計算の結果よ、社会という方程式に因果を混ぜ合わせた結果ね、髪神の意志とでも言うべきだわ。何?私みたいな人間がそんな単語を言ったことがあまりにも意外かしら?」
「いえ・・・・・・・・」
青年は、言葉を失った。
「私は、ねえ、自分たちがいかにも正義漢ってカオをする人間が許せないのよ、マスコミとか検事、ケーサツによくあるタイプね」
雇い主、こと、財前春実弁護士は、青年に渡された書類を広げた。
「そう、・・・・え?辻口記念病院? 啓三のところじゃない・・・・」
その時、春実は美貌に狐を潜ませた。青年は雇い主の上目遣いに、何か憑きものが降りたのではないかと本気で錯覚した。
「わかったわ」
「え?」
顔の表面を剥ぎ取られたような奇妙な表情だった。春実はそんな顔に容赦なく言葉を突きつける。
「新しい仕事の件はキャンセル、用ができたわ。付いてきなさい、あなた秘書件、運転手でしょう?」
「え? 先生、あさま銀行の件ですよ」
青年の申し出を無視して、春実はハイヒールに髑髏の音楽を奏でさせた。
その音があまりにかまびすしかったので、春実の囁きを聞くことが出来なかった。
―――あの女、ぜったいに許せないわ!!
新釈『氷点』2009
キャスト
辻口陽子 :海崎照美
辻口夏枝:浅野篤子
財前春実:池上貴見子(25歳)
辻口啓造:三浦友数
辻口薫子:未定
村井靖夫:未定
急告!
この度、新釈『氷点』2009を発表することになりました。突然の報告になりますがくれぐれもよろしくお願い申しあげます。
『新釈 氷点2009 1』
青年がエンジンを踏むと、黒塗りの国産車はうなり声を上げた。それは生命の呼吸を思わせる。
背後で扉が締まると意志の強さを感じさせる女の声が聞こえる。
「谷崎君、啓三のところね」
「え? もしかして、辻口 ――――さんとお知り合いなんてすか?」
突然のことなので、敬称をつけることを忘れるぐらいだった。国選弁護人としてこの事件に係わろうとしていた矢先のことだ。そのために秘書兼、運転手である谷崎は、ある程度の情報を得ていたのである。
「啓三と彼の奥さんとは、幼馴染みよ」
「ということは、親友の娘を殺した犯人を弁護しようとしていたんですか?」
悪魔の笑みを浮かべて口を開く。
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『新釈 氷点2009 2』
啓三は、ただ黙って机の上にあるものを見つめていた。それは彼の家族のポートレイトだった。自分と妻である夏枝、そして、二人の前に長女である薫子が立っている。そして、その前にはお客用の豪奢な椅子が置かれ ――――。
その上には ―――――。
次期城主の視線は写真の中の聖域に注がれていた。それは、現在の彼がけっして見てはならないものだった。何故ならば、彼じしんの精神の健康を非常に害する危険を内包していたからである。 しかし、何十キロも走ったランナーが水を求めるように、愛娘の顔を探しあてていた。
「ルリ子!!」
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『新釈 氷点2009 3』
家族を見送り終わった夏枝はしばらく空を見ていた。蒼天という言葉はこのためにあるのだと思わせるくらいに、透けるような青空が広がっている。
――――これから、ずっとこうだといいわ。
自分に言い聞かせるように、空に視線を遣ると、人の背の二倍くらいはある板チョコのようなドアを閉めた。
玄関を入ると客人は正面にある絵画に魂を奪われることになる。キュビズムと言うべきか、それともシュールレアリズムなのか、大抵の客人は評価に苦心することになる。
長崎城主の邸宅ともなれば、客人の数は、普通の家の倍増しとなる。彼らは、この絵をどう批評しようかと頭を悩ませる。
ところが、彼らは総じて同じ感想を持つ。
それは、この絵が醸し出している圧倒的な幸福感である。
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『新釈 氷点2009 4』
「そうだ。学校戻らなきゃ ――――」
「陽子ちゃん!?」
まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
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改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!
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『いじめ文学専用サイト』へようこそ!


いじめ文学専用サイトイメージガール、エレーヌちゃん
いじめ文学専用サイトイメージガール、エレーヌちゃん
こんにちは、エレーヌといいます。いきなり、ルノワール先生に呼ばれてきました。このサイトのためにがんばりたいと思います。
ところで、サイトって何でしょう?
それに、みんなどうして、そんなに肌が黄色いの?
訳:川島忠之助
『いじめ文学専用サイト』美術監督、オーギュスト・ルノワール
再三による就任要請に、やっと“Oui”と言っていただきました。
『マザーエルザの物語・終章』キャラクター001 榊あおい画像
ルノワール先生のご指導の元、Cesareがデッサンいたしました。
本サイトでは、U15の少女を主人公としております。
なお、性的なコンテンツを含みます。18才以下の方は、即時、退去していただくようオネガイします。
本サイトが、内容の中心に置いているのが『いじめ』です。これから、数多くのいじめられっ子談を紹介したいと思います。
こんにちは、西宮由加里です。アルバイトで、このサイトの管理者をやることになりました。まだ、高校二年生なんですけど、大丈夫でしょうか?このサイトって18禁ってなっているんですけど。通報とかしないでくださいね。
二人目の少女を紹介したいと思います。
「さあ、おいで、あおいちゃん」
「由加里お姉ちゃん・・・・」
「さあ、お姉ちゃんがついているから」
「はい・・・・・私の名前は、榊あおいといいます。今度中一になりました。私の悲しい・・・・けど、」
「けど?さ、ちゃんと説明してごらん」
去年、1年に起きたことは、本当に不思議な体験でした。この世界の何処の女の子も、経験できないような1年でした。もう、1年で一生分を過ごしてしまったかのようです。
このサイトを知ったのは、夢の中です。突然ですけど、ユングっていう偉い学者さんを知っていますか?彼によると、無意識は個人的なのと全人間、共有のがあるそうです。きっと、このサイトは、共有部分なのでしょう?だから、同じように苦しんだ由加里お姉ちゃんに会えたのだと思います。もしも、姉ちゃんに会えなかったら、永劫、悪夢の世界を漂っていたと思います。
お姉ちゃんは、私の苦しい体験を、このへんなおじさんに話すように言いました。
私はイヤだったのですが、お姉ちゃんが、どうしてもというので話します。
『マザー=エルザの物語、終章 』
『マザー=エルザの物語、終章 序章』
マザーエルザという名を知らない者はいないだろう。今、1997年9月5日、彼女の名前に、ふさわしくないくらいに、慎ましい病院で、息を引き取ろうとしていた。
1910年8月26日に生を受けていらい86年。アギリは、いや、世界はこの女性と時間を共有できたことを神に感謝すべきである。
世界の誰からも愛され、尊敬された聖女は、今、約束された最後の呼吸をしようとしている。
「ああ、もう息ができないわ」
そのか細い声は、世界のすべてを貫くほどの衝撃を持っていた。
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『マザー=エルザの物語、終章 1』
1998年4月3日、(愛名46年)
「みなさん、今日はマザーエルザのことについてお話しをします」
白を基調にした清廉な教室。そこに、よく通る声が響く。彼女は、子どもたちが大好きなシスターだ。その声を聞くと、みんなまじめに勉強をしたくなる。二人の姉たちのように、あまり勉強が好きではない、この少女でさえ、手を挙げたがる。
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『マザー=エルザの物語、終章 2』
赤木啓子の家は、都心から車で10分といったところにある。緑に覆われた高台の真ん中に、その閑静な住宅街はある。
彼女の母親が運転する車は、今、桜の花が降りしきる大通りを走っている。すぐ、そこの道を併走する少年がいたが、一瞬で追い抜いてしまった。
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『マザー=エルザの物語、終章 3』
地平線が咆吼する。
乾いた音が、大地に響き渡る。
男が怒りを爆発させ、女がそれを受けた。2000年以上にわたる人類の歴史において、常にあったことである。
「これで気が済んだの?」
しばらく続いた沈黙の後、口を開いたのは、女だった。平手打ちを受けた頬がほんのりと赤くなっている。
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『マザー=エルザの物語、終章 4』
榊あおいは、車上の人になっている。当たり前のことだが、運転しているのは、少女ではなく彼女の母親である。榊久子、年齢的には、30才を幾つか超えるほどだが、まだ20代後半と言っても通用する肌と目の光りを持っている。
サングラスで両目を隠してはいても、その美貌は、おおよそ見当が付く。そして、その表情をも見当がつく、いや、ついてしまう。尖った鼻先は、彼女の苛つきを暗示しているようだ。
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『マザー=エルザの物語、終章 5』
失禁。その行為は、ふつう、そう呼ばれている。しかし、今、少女に見舞われている災難を、そう呼ぶのはあまりにむごいだろう。何故ならば、多分に、不可抗力の性格が強いからである。
「ィヤあああアアアアアアア・・・ア・ア・」
自らの汚物で、躰が汚される感触。自分の汚い温かさによって、浸食されるおぞましさ。それを股間から、舌の先まで感じさせられたのである。あおいは、いつの間にか、縛られたまま、雨に打たれていた。完全に感覚がマヒしている。土砂であっても食べたくなるくらいの空腹も喉の渇きも感じない。自分が何処にいるのかわからない。きつく縛られた手首と足首は、もう痛くないし、雨は冷たくなかった。そして、身体が濡れる気持ち悪さからも、解放された。
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『マザー=エルザの物語、終章 6』
「えー?真美伯母さん、入院しちゃったの?」
榊あおいが、まず、黄色い声を上げた。
「そうよ」
「で、どんな様子なの?」
榊家の長女である徳子。四人姉妹の中で、一番冷静なのは、さすがに、この長女のようだ。それぞれ、次女と四女である有希江と茉莉も心配そうに母の口から出る言葉を見守っている。
四姉妹にとって、恵子は二人目の母親に等しいのだ。
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『マザー=エルザの物語、終章 7 』
家族の急変は、あおいの予想をはるかに超えていた。まるである時刻を境に、世界が一変してしまったかのようだ。自分は、何処か別世界に飛ばされてしまったとでもいうのだろうか。家も家具も、家族もみんな同じなのに、何かが決定的に違う。有希江がいつも身につけているイヤリングまで同じなのに、世界は、あおいにとって完全に異国になってしまった。ちなみに、それは、サーファーである彼からプレゼントされた品で、サーフボードを形取っている。
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『マザー=エルザの物語、終章 8 』
「そうだ、家政婦、忘れ物、あんたの夕御飯よ!」
「茉莉!」
残照を切り裂くような声とともに、あおいの頬に飛んできたものは、500円硬貨だった。榊家の浴室は広大で、目標までかなり距離があるにもかかわらず、それは、的を誤らなかった。あおいの眉間に当たって、タイルの床に転がった。
犠牲者の目には、それが螺旋に回転しながら、堕ちる様が、まるで、自分の運命を暗示しているように見えたかもしれない。
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『マザー=エルザの物語、終章 9 』
あおいは祈るような気持で、鉄格子の向こうにある満月を見つめていた。しかし、そうは言っても、別に、あおいは牢獄に閉じこめられているわけではない。それまでの部屋を使うことは許されている。あおいの部屋は、ヨーロッパ風建築によくあるような、格子が入っているのだ。今の境遇から、それが鉄格子にしか見えなかったのである。
しかし、部屋の様子は、いままでとだいぶ違う。まだ午後9時を少しだけ回っただけだというのに、真っ暗なのだ。停電したとでもいうのだろうか。
だが、この息苦しい雰囲気は、なんだろう。
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『マザー=エルザの物語、終章 10 』
「ウウ・ウ・・ウ・ウウ・・・・うう!」
あおいは、涙の粒が食器の上に、落ちるのを幾つも確認した。しかし、もうどうしようもない。彼等は、何かしら少女に訴えかけているのだが、その真意を知ることはできない。いや、探ろうとする。
今、自分の脳はどのようになっているだろう。身を裂かれそうな悲しみのなかで、ふと、あおいはそう想像してみた。
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『マザー=エルザの物語、終章 11 』
「お姉さんに話してご覧なさい、何をしていたの?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
有希江は、あおいの意図を探るように、針を密かに刺してくる。あおいは、それにどのように対処していいのか、わからずに、黙りこくってしまった。そこで、貝殻に籠もってしまった貝をどうやって吸い出すのか、有希江は、言葉の手練手管を使って、おびき出すことにした。
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『マザー=エルザの物語、終章 12 』
有希江は、小雪の降りしきる夜に、秘密を明かしはじめた。それは、ごく小さく、針の穴を通すような細さだった。しかし、周囲が暗ければ、暗いほど、その光は、まぶしく感じるものだ。ちなみに、二人が棲まう部屋は、夜の妖怪が好むくらいに薄暗い。近代文明の恩恵を拒否するように、蝋燭の明かりほどの、光度しか保っていなかった。
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『マザー=エルザの物語、終章 13 』
「ハア・・・ハア・・・・・・ハア・・ア・ア・ァァ・・・・ハア」
あおいは、よつんばいになって、有希江の責めを受けている。幼い肢体を見えない手枷足枷に、拘束されて、恥部を蹂躙されている。その姿は、見方を変えれば、自分から、それをねだっているかのように見える。
「有希江姉さんの言うこと聞くなら、たまには、こうしてあげるわ、これは、あんたへの愛情の記なのよ」
「ウウ・ウ・・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!?」
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『マザー=エルザの物語、終章 14 』
――――ふっ、白昼夢?
有希江は、苦笑を禁じ得なかった。白昼夢と言っても、常に夜のとばりは降りており、アポロンは、美女と同衾のすえ、疲れを癒やすために就寝中にちがいないのである。
少女は、妹に、演技じみた視線を向けると、口を開いた。
「さ、お腹空いたでしょう? 有希江姉さんとごはん食べようか」
「・・・・・・・・」
あおいは、水に浸かったお握りのような顔を姉に向けた。有希江は、彼女を見下ろしている。その目は、優しさに満ちている。
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『マザー=エルザの物語、終章 15』
有希江と茉莉の違いは、ただ、ひとつのことを自覚しているか、否かにすぎない。言い換えるならば、自分が、あおいを憎んでいる。その事実に、形だけでも疑うことができるか、否かのちがいだ。
それだけのことに尽きる。
茉莉を自室に戻らせると、有希江はあおいを睨みつけた。少女がひるむと、柔らかく目を瞑った。まさに人間と犬どうしのやり取り。
それに痺れを切らしたのか、少女は立ちあがろうとした。しかし ―――――。
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『マザー=エルザの物語、終章 16』
「そうよ、良い子ね。ちゃんと全部食べるのよ、残しちゃだめよ。ほら、こっちに付いているじゃない」
「ウグググ・・・むぐ・・・・ぐち」
屈辱的な姿勢。
よつんばいにさせられたあおいは、スプーンに舌を這わせている。自分の舌が、あたかも自分のものではないような錯覚に襲われる。それは、まるで少女から独立した物体のように、銀色の半球体を移動していく。芋虫か、得体の知れない軟体生物のように、ヒクヒクとその身体を変化させながら、淫靡な汁を流す。
それは、あまりにも現実感のなさが起因しているのかもしれない。自分がやっていること、あるいはさせられていることが、とても真実とは思えない。そのような思いは、しかし、顎の筋肉の緊張や痛みによって、それが現実であることをイヤでも実感させられる。すると、屈辱や恥辱と直面することになる。
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『マザー=エルザの物語、終章 17』
やっとのことで屈辱的な食事を終えると、突如として、有希江が言い渡した。
「わかったわね、家では私がみんな世話してあげるから、自分で何もしちゃだめよ。そうしたら、ちゃんと可愛がってあげるわ」
「・・・・・・・・・」
放心状態のあおいには、有希江の言葉が届かない。まるで恐竜のように神経が緩慢になった状態では、心身両面において理解することは、まず無理というものだ。
「わかったの?!」
「ハ・・・ハイ!」
ほとんど、パフロフの犬のようにあおいは反応した。
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『マザー=エルザの物語、終章 18』
「そうだ、宿題やらなきゃ、きっと、あおいは全然やってないのだわ―――」
親友に出会った頭から降り懸かってくる台詞を、赤木啓子は簡単に予測できた。
――――最初は、何も言わないにちがいない。良くっておざなりな挨拶が渡されるていどのことだろう。
きっと『粗品』って書いてあるにちがいない。だいぶ前、母親と行った会話に出てきた言葉を、心のなかで使ってみた。中学に入ったばかりの生徒が友人をからかうのにも英語を使いたがるのに似ている。2年後、BE動詞も理解されておらず、高校に入れないと泣いているかもしれないのに・・・・・・。
それはともかく、啓子は『粗品』などダッシュボードに突っ込むつもりだ。
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『マザー=エルザの物語、終章 19』
何処かの梢の上で泣いている雀。遠くの空に棚引いている雲。
車窓から見える風景は変わらないのに、そして、車自身が立てる呼吸音も変わらないのに、少女を取り巻く境遇は180度変わってしまった。
その証拠に彼女の特定席だった助手席ではなくて、バックに座っている。肩を怒らせてちょこんと座る姿は、何処かはかなげで所在なげに見える。
――――どうしてなの? ママ?どうしてそんな顔をするの?
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『マザー=エルザの物語、終章 20』
「ほら、何をしているの? はやく食べなさいな」
いち早く到着したハンバーグを目の前にして凝固している娘に、久子は言った。『召し上がれ』ではなく『食べなさい』と言われたことが、余計に涙を誘う。ぷるぷると震えながら涙を拭くあおいを、まるで猫が瀕死の獲物を弄ぶように、取り扱う。
「ほら、醒めちゃうでしょう?」
久子の優しさはいわばテレビCMの中の母親のそれだ。素人女優の底の浅い演技のように、見え透いている。
しかし・・・・。
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『マザー=エルザの物語、終章 21』
あおいの脊椎に電撃のような衝撃が走る。
「あおいちゃん! あおいちゃん! 大丈夫なの? 具合悪いの!?」
なおもエキセントリックな声がトイレ中に響き渡る。床に散りばめられたタイルというタイルに反響して音の芸術を作り出した。
しかし、それはあおいにとって鑑賞すべき対象ではない。いや、現在少女の内面を形作っている感情が、それを許さないのだ。
全身を凍りつかせるような羞恥心。
『マザー=エルザの物語、終章 22』
祥子がどうして娘とあおいをその展覧会に誘おうとしたのか、その理由はわからない。気が付いたら、そのような気分になっていて、チケットを差し出していた。チケットはたまたま持っていたものである。非常に宗教的なはなしになるが目に見えない得体の知れない力によって、身体を吸引されている気分になった。
何者かに操られている。自分の動きの中に、自分の意志でないものを見つけたのである。チケットは友人の気まぐれによってもらったものであるし、その朝、たまたま選んだバッグにそれが混入していたのは、単なる偶然にすぎない。
そして、ふたりを目の前にしてチケットを取り出したのは、単に陽光が眩しかったからである。
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『マザー=エルザの物語、終章 23』
赤木祥子は長いすに座っていた。展覧物はあらかた回ったので、一休みしようと思ったのだ。すぐにでも帰ろうとも思ったが、思いの外、あおいが夢中になっているので、少しばかり待っていようと思ったのである。
もっとも、啓子のほうはかなり迷惑そうだったが、それは意識からあえて除外することにした。
当然のように煙草は吸えないので、たいへん、手持ち無沙汰だった。それに口が淋しい。レストランでも車の中でも、子供たちがいたので、ニコチンを摂取するわけにはいかなかった。その代わりと言ってなんだが2500円もする画集を開いている。
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『マザー=エルザの物語、終章 24』
絵画と人間のやりとりとは真剣な行為である。両者の間に火花が散る。すこしでも気を抜けばとたんに心を奪われてしまう。
それは、単なる絵の具の塊などではない。もしも真性の絵画ならば心を持っている。それゆえに、人間との関わり合いには自然と心のふれあいをもたらす。それは肉体を持つ人間との、いや、それ以上に真剣な心の鞘当てを必要とされる。
だから、単に絵画が目の前にあるだけでは体面を意味しない。
あおいと啓子が、再び井上順の絵画と本質的ないみにおいて体面するのは、かなり先のことである。
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『マザー=エルザの物語、終章 25』
再び、あおいと啓子がニフィルティラピアという地名を耳にするのは、もうまもなくのことである。しかし、マザーエルザという固有名詞を聞いたのははじめてのことだった。その授業はマザーと呼ばれる修道女の手によって行われる宗教の時間に行われている。
しかしながら、宗教とは言ってもことさら戒律じみたことを強制するわけでもないし、学校が奉ずるキリスト教アリウス派の信仰を強いるわけでもない。ただ、聖書を通じた物語を通じて、物の道理を教えるだけである。
言いようによっては、もっと、意地の悪い表現も可能だ。薄い毒を飲まされているということである。精神の発育に準じて、キリスト教精神をやんわりと教え込まされるのだから、そのやり方は頭の良いやり方だと言えるだろう。
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『マザー=エルザの物語、終章 26』
ここは、5年B組の教室。依然としてあおいの行動が波紋を呼んでいる。啓子は、親友の変容にどうやって対応したらいいのか、戸惑っていた。そして、クラスメートは二人を嵐の中心として、ただそれが過ぎ去るのを見守ることしかできない。
ここにいる誰しもが時間の停止を確信した。空気の分子の運動にいたるまですべてが静止し、何時になろうとも昼休みはおろか夜のとばりさえ降りないとさえ思われた。
しかし、嵐を止める魔法の杖を持っている魔女はいきなりやってきた。
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『マザー=エルザの物語、終章 27』
ちょうどそのころ、5年B組の教室では赤木啓子が入室したところだった。教師に命じられた書類運びという任務を果たし終えようとしていたところである。それを重々しそうな動作で教壇に置いたところ、友人が話しかけてきた。
「赤木さん、あおいのお姉さんが来てたわよ」
「え? 有希江姉さんが!?」
その驚きと喜びが微妙にブレンドされた表情を見ることは、あおいと言えどなかなか見られる代物ではない。
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『マザー=エルザの物語、終章 28』
教室に戻ったとき、あおいは息も絶え絶えな状態で、多分にクラスメートの同情を買った。少女の真珠色に輝く額には、脂汗のようなものが滲んでいる。霧を吹きかけた高級陶器のようで、反射光の美しさがやけに目立って痛々しい。
啓子にもそれが伝わったと見えて、心配そうに親友の顔を伺っている。
「大丈夫? 早く座ろうよ。それとも保健室に行く?」
あおいにしか見せない顔で言葉を投げかける。事実、二人の間に流れている世界には、第三者が入り込める隙を見いだせなかった。
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『マザー=エルザの物語、終章 29』
意識を失ってあおいは新たなる翼を得た。
ところが、いちど空に向かって羽ばたいてみると、それは秋の空のように小春日和の清々しい空間を飛翔するための道具でないことがわかった。
音もなく、少女は大地に降り立った。虚空に浮かんでいることに、そこはかとない恐怖と不安を怯えたのである。
しかし、そこは彼女にとってほんとうに安泰な場所なのだろうか。
思い出したくもない過去。言い換えれば、例え、どんなすばらしい大地にも、地下には地層があり、 その一つには悪魔の糞便で固められた層もあるということだ。
言わんや、げんざい、あおいが置かれている状態は混迷を極めている。その過去にはいったい、何があるのか。まったく想像できない。立っている大地がけっして、堅実でないことは微かに触れる今の状況が何よりの証左になるだろう。
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『マザー=エルザの物語、終章 30』
ふいに、あおいは、寝返りを打った。啓子はそれに喜びの感情を素直に表すべきだったのかもしれない。しかし、少女の心にはそれと全く違う感覚が芽吹き始めていたのである。どんなにふっくらとした容姿を持つ人間でも、顔に鋭角を備える場所がある。
一般に細面が美人の条件だと言われるが、たいてい、そのような人間は、その鋭角が鋭い。あおいもその例外ではない。首にブイの字を造る胸鎖乳突筋から顔につながるところ。即ち、顎である。 その部分から可愛らしい曲線を造る耳たぶに至るラインを見ていると、あるものが目の前にないことが悔やまれた。
スケッチブック。
そして、画材。
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『いじめ文学専用サイト』へようこそ!



いじめ文学専用サイトイメージガール、エレーヌちゃん
いじめ文学専用サイトイメージガール、エレーヌちゃん
こんにちは、エレーヌといいます。いきなり、ルノワール先生に呼ばれてきました。このサイトのためにがんばりたいと思います。
ところで、サイトって何でしょう?
それに、みんなどうして、そんなに肌が黄色いの?
訳:川島忠之助
『いじめ文学専用サイト』美術監督、オーギュスト・ルノワール
再三による就任要請に、やっと“Oui”と言っていただきました。
『マザーエルザの物語・終章』キャラクター001 榊あおい画像
ルノワール先生のご指導の元、Cesareがデッサンいたしました。
本サイトでは、U15の少女を主人公としております。
なお、性的なコンテンツを含みます。18才以下の方は、即時、退去していただくようオネガイします。
本サイトが、内容の中心に置いているのが『いじめ』です。これから、数多くのいじめられっ子談を紹介したいと思います。
こんにちは、西宮由加里です。アルバイトで、このサイトの管理者をやることになりました。まだ、高校二年生なんですけど、大丈夫でしょうか?このサイトって18禁ってなっているんですけど。通報とかしないでくださいね。
二人目の少女を紹介したいと思います。
「さあ、おいで、あおいちゃん」
「由加里お姉ちゃん・・・・」
「さあ、お姉ちゃんがついているから」
「はい・・・・・私の名前は、榊あおいといいます。今度中一になりました。私の悲しい・・・・けど、」
「けど?さ、ちゃんと説明してごらん」
去年、1年に起きたことは、本当に不思議な体験でした。この世界の何処の女の子も、経験できないような1年でした。もう、1年で一生分を過ごしてしまったかのようです。
このサイトを知ったのは、夢の中です。突然ですけど、ユングっていう偉い学者さんを知っていますか?彼によると、無意識は個人的なのと全人間、共有のがあるそうです。きっと、このサイトは、共有部分なのでしょう?だから、同じように苦しんだ由加里お姉ちゃんに会えたのだと思います。もしも、姉ちゃんに会えなかったら、永劫、悪夢の世界を漂っていたと思います。
お姉ちゃんは、私の苦しい体験を、このへんなおじさんに話すように言いました。
私はイヤだったのですが、お姉ちゃんが、どうしてもというので話します。
『マザー=エルザの物語、終章 』
『マザー=エルザの物語、終章 序章』
マザーエルザという名を知らない者はいないだろう。今、1997年9月5日、彼女の名前に、ふさわしくないくらいに、慎ましい病院で、息を引き取ろうとしていた。
1910年8月26日に生を受けていらい86年。アギリは、いや、世界はこの女性と時間を共有できたことを神に感謝すべきである。
世界の誰からも愛され、尊敬された聖女は、今、約束された最後の呼吸をしようとしている。
「ああ、もう息ができないわ」
そのか細い声は、世界のすべてを貫くほどの衝撃を持っていた。
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『マザー=エルザの物語、終章 1』
1998年4月3日、(愛名46年)
「みなさん、今日はマザーエルザのことについてお話しをします」
白を基調にした清廉な教室。そこに、よく通る声が響く。彼女は、子どもたちが大好きなシスターだ。その声を聞くと、みんなまじめに勉強をしたくなる。二人の姉たちのように、あまり勉強が好きではない、この少女でさえ、手を挙げたがる。
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『マザー=エルザの物語、終章 2』
赤木啓子の家は、都心から車で10分といったところにある。緑に覆われた高台の真ん中に、その閑静な住宅街はある。
彼女の母親が運転する車は、今、桜の花が降りしきる大通りを走っている。すぐ、そこの道を併走する少年がいたが、一瞬で追い抜いてしまった。
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『マザー=エルザの物語、終章 3』
地平線が咆吼する。
乾いた音が、大地に響き渡る。
男が怒りを爆発させ、女がそれを受けた。2000年以上にわたる人類の歴史において、常にあったことである。
「これで気が済んだの?」
しばらく続いた沈黙の後、口を開いたのは、女だった。平手打ちを受けた頬がほんのりと赤くなっている。
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『マザー=エルザの物語、終章 4』
榊あおいは、車上の人になっている。当たり前のことだが、運転しているのは、少女ではなく彼女の母親である。榊久子、年齢的には、30才を幾つか超えるほどだが、まだ20代後半と言っても通用する肌と目の光りを持っている。
サングラスで両目を隠してはいても、その美貌は、おおよそ見当が付く。そして、その表情をも見当がつく、いや、ついてしまう。尖った鼻先は、彼女の苛つきを暗示しているようだ。
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『マザー=エルザの物語、終章 5』
失禁。その行為は、ふつう、そう呼ばれている。しかし、今、少女に見舞われている災難を、そう呼ぶのはあまりにむごいだろう。何故ならば、多分に、不可抗力の性格が強いからである。
「ィヤあああアアアアアアア・・・ア・ア・」
自らの汚物で、躰が汚される感触。自分の汚い温かさによって、浸食されるおぞましさ。それを股間から、舌の先まで感じさせられたのである。あおいは、いつの間にか、縛られたまま、雨に打たれていた。完全に感覚がマヒしている。土砂であっても食べたくなるくらいの空腹も喉の渇きも感じない。自分が何処にいるのかわからない。きつく縛られた手首と足首は、もう痛くないし、雨は冷たくなかった。そして、身体が濡れる気持ち悪さからも、解放された。
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『マザー=エルザの物語、終章 6』
「えー?真美伯母さん、入院しちゃったの?」
榊あおいが、まず、黄色い声を上げた。
「そうよ」
「で、どんな様子なの?」
榊家の長女である徳子。四人姉妹の中で、一番冷静なのは、さすがに、この長女のようだ。それぞれ、次女と四女である有希江と茉莉も心配そうに母の口から出る言葉を見守っている。
四姉妹にとって、恵子は二人目の母親に等しいのだ。
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『マザー=エルザの物語、終章 7 』
家族の急変は、あおいの予想をはるかに超えていた。まるである時刻を境に、世界が一変してしまったかのようだ。自分は、何処か別世界に飛ばされてしまったとでもいうのだろうか。家も家具も、家族もみんな同じなのに、何かが決定的に違う。有希江がいつも身につけているイヤリングまで同じなのに、世界は、あおいにとって完全に異国になってしまった。ちなみに、それは、サーファーである彼からプレゼントされた品で、サーフボードを形取っている。
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『マザー=エルザの物語、終章 8 』
「そうだ、家政婦、忘れ物、あんたの夕御飯よ!」
「茉莉!」
残照を切り裂くような声とともに、あおいの頬に飛んできたものは、500円硬貨だった。榊家の浴室は広大で、目標までかなり距離があるにもかかわらず、それは、的を誤らなかった。あおいの眉間に当たって、タイルの床に転がった。
犠牲者の目には、それが螺旋に回転しながら、堕ちる様が、まるで、自分の運命を暗示しているように見えたかもしれない。
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『マザー=エルザの物語、終章 9 』
あおいは祈るような気持で、鉄格子の向こうにある満月を見つめていた。しかし、そうは言っても、別に、あおいは牢獄に閉じこめられているわけではない。それまでの部屋を使うことは許されている。あおいの部屋は、ヨーロッパ風建築によくあるような、格子が入っているのだ。今の境遇から、それが鉄格子にしか見えなかったのである。
しかし、部屋の様子は、いままでとだいぶ違う。まだ午後9時を少しだけ回っただけだというのに、真っ暗なのだ。停電したとでもいうのだろうか。
だが、この息苦しい雰囲気は、なんだろう。
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『マザー=エルザの物語、終章 10 』
「ウウ・ウ・・ウ・ウウ・・・・うう!」
あおいは、涙の粒が食器の上に、落ちるのを幾つも確認した。しかし、もうどうしようもない。彼等は、何かしら少女に訴えかけているのだが、その真意を知ることはできない。いや、探ろうとする。
今、自分の脳はどのようになっているだろう。身を裂かれそうな悲しみのなかで、ふと、あおいはそう想像してみた。
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『マザー=エルザの物語、終章 11 』
「お姉さんに話してご覧なさい、何をしていたの?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
有希江は、あおいの意図を探るように、針を密かに刺してくる。あおいは、それにどのように対処していいのか、わからずに、黙りこくってしまった。そこで、貝殻に籠もってしまった貝をどうやって吸い出すのか、有希江は、言葉の手練手管を使って、おびき出すことにした。
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『マザー=エルザの物語、終章 12 』
有希江は、小雪の降りしきる夜に、秘密を明かしはじめた。それは、ごく小さく、針の穴を通すような細さだった。しかし、周囲が暗ければ、暗いほど、その光は、まぶしく感じるものだ。ちなみに、二人が棲まう部屋は、夜の妖怪が好むくらいに薄暗い。近代文明の恩恵を拒否するように、蝋燭の明かりほどの、光度しか保っていなかった。
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『マザー=エルザの物語、終章 13 』
「ハア・・・ハア・・・・・・ハア・・ア・ア・ァァ・・・・ハア」
あおいは、よつんばいになって、有希江の責めを受けている。幼い肢体を見えない手枷足枷に、拘束されて、恥部を蹂躙されている。その姿は、見方を変えれば、自分から、それをねだっているかのように見える。
「有希江姉さんの言うこと聞くなら、たまには、こうしてあげるわ、これは、あんたへの愛情の記なのよ」
「ウウ・ウ・・ウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!?」
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『マザー=エルザの物語、終章 14 』
――――ふっ、白昼夢?
有希江は、苦笑を禁じ得なかった。白昼夢と言っても、常に夜のとばりは降りており、アポロンは、美女と同衾のすえ、疲れを癒やすために就寝中にちがいないのである。
少女は、妹に、演技じみた視線を向けると、口を開いた。
「さ、お腹空いたでしょう? 有希江姉さんとごはん食べようか」
「・・・・・・・・」
あおいは、水に浸かったお握りのような顔を姉に向けた。有希江は、彼女を見下ろしている。その目は、優しさに満ちている。
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『マザー=エルザの物語、終章 15』
有希江と茉莉の違いは、ただ、ひとつのことを自覚しているか、否かにすぎない。言い換えるならば、自分が、あおいを憎んでいる。その事実に、形だけでも疑うことができるか、否かのちがいだ。
それだけのことに尽きる。
茉莉を自室に戻らせると、有希江はあおいを睨みつけた。少女がひるむと、柔らかく目を瞑った。まさに人間と犬どうしのやり取り。
それに痺れを切らしたのか、少女は立ちあがろうとした。しかし ―――――。
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『マザー=エルザの物語、終章 16』
「そうよ、良い子ね。ちゃんと全部食べるのよ、残しちゃだめよ。ほら、こっちに付いているじゃない」
「ウグググ・・・むぐ・・・・ぐち」
屈辱的な姿勢。
よつんばいにさせられたあおいは、スプーンに舌を這わせている。自分の舌が、あたかも自分のものではないような錯覚に襲われる。それは、まるで少女から独立した物体のように、銀色の半球体を移動していく。芋虫か、得体の知れない軟体生物のように、ヒクヒクとその身体を変化させながら、淫靡な汁を流す。
それは、あまりにも現実感のなさが起因しているのかもしれない。自分がやっていること、あるいはさせられていることが、とても真実とは思えない。そのような思いは、しかし、顎の筋肉の緊張や痛みによって、それが現実であることをイヤでも実感させられる。すると、屈辱や恥辱と直面することになる。
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『マザー=エルザの物語、終章 17』
やっとのことで屈辱的な食事を終えると、突如として、有希江が言い渡した。
「わかったわね、家では私がみんな世話してあげるから、自分で何もしちゃだめよ。そうしたら、ちゃんと可愛がってあげるわ」
「・・・・・・・・・」
放心状態のあおいには、有希江の言葉が届かない。まるで恐竜のように神経が緩慢になった状態では、心身両面において理解することは、まず無理というものだ。
「わかったの?!」
「ハ・・・ハイ!」
ほとんど、パフロフの犬のようにあおいは反応した。
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『マザー=エルザの物語、終章 18』
「そうだ、宿題やらなきゃ、きっと、あおいは全然やってないのだわ―――」
親友に出会った頭から降り懸かってくる台詞を、赤木啓子は簡単に予測できた。
――――最初は、何も言わないにちがいない。良くっておざなりな挨拶が渡されるていどのことだろう。
きっと『粗品』って書いてあるにちがいない。だいぶ前、母親と行った会話に出てきた言葉を、心のなかで使ってみた。中学に入ったばかりの生徒が友人をからかうのにも英語を使いたがるのに似ている。2年後、BE動詞も理解されておらず、高校に入れないと泣いているかもしれないのに・・・・・・。
それはともかく、啓子は『粗品』などダッシュボードに突っ込むつもりだ。
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『マザー=エルザの物語、終章 19』
何処かの梢の上で泣いている雀。遠くの空に棚引いている雲。
車窓から見える風景は変わらないのに、そして、車自身が立てる呼吸音も変わらないのに、少女を取り巻く境遇は180度変わってしまった。
その証拠に彼女の特定席だった助手席ではなくて、バックに座っている。肩を怒らせてちょこんと座る姿は、何処かはかなげで所在なげに見える。
――――どうしてなの? ママ?どうしてそんな顔をするの?
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『マザー=エルザの物語、終章 20』
「ほら、何をしているの? はやく食べなさいな」
いち早く到着したハンバーグを目の前にして凝固している娘に、久子は言った。『召し上がれ』ではなく『食べなさい』と言われたことが、余計に涙を誘う。ぷるぷると震えながら涙を拭くあおいを、まるで猫が瀕死の獲物を弄ぶように、取り扱う。
「ほら、醒めちゃうでしょう?」
久子の優しさはいわばテレビCMの中の母親のそれだ。素人女優の底の浅い演技のように、見え透いている。
しかし・・・・。
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『マザー=エルザの物語、終章 21』
あおいの脊椎に電撃のような衝撃が走る。
「あおいちゃん! あおいちゃん! 大丈夫なの? 具合悪いの!?」
なおもエキセントリックな声がトイレ中に響き渡る。床に散りばめられたタイルというタイルに反響して音の芸術を作り出した。
しかし、それはあおいにとって鑑賞すべき対象ではない。いや、現在少女の内面を形作っている感情が、それを許さないのだ。
全身を凍りつかせるような羞恥心。
『マザー=エルザの物語、終章 22』
祥子がどうして娘とあおいをその展覧会に誘おうとしたのか、その理由はわからない。気が付いたら、そのような気分になっていて、チケットを差し出していた。チケットはたまたま持っていたものである。非常に宗教的なはなしになるが目に見えない得体の知れない力によって、身体を吸引されている気分になった。
何者かに操られている。自分の動きの中に、自分の意志でないものを見つけたのである。チケットは友人の気まぐれによってもらったものであるし、その朝、たまたま選んだバッグにそれが混入していたのは、単なる偶然にすぎない。
そして、ふたりを目の前にしてチケットを取り出したのは、単に陽光が眩しかったからである。
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『マザー=エルザの物語、終章 23』
赤木祥子は長いすに座っていた。展覧物はあらかた回ったので、一休みしようと思ったのだ。すぐにでも帰ろうとも思ったが、思いの外、あおいが夢中になっているので、少しばかり待っていようと思ったのである。
もっとも、啓子のほうはかなり迷惑そうだったが、それは意識からあえて除外することにした。
当然のように煙草は吸えないので、たいへん、手持ち無沙汰だった。それに口が淋しい。レストランでも車の中でも、子供たちがいたので、ニコチンを摂取するわけにはいかなかった。その代わりと言ってなんだが2500円もする画集を開いている。
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『マザー=エルザの物語、終章 24』
絵画と人間のやりとりとは真剣な行為である。両者の間に火花が散る。すこしでも気を抜けばとたんに心を奪われてしまう。
それは、単なる絵の具の塊などではない。もしも真性の絵画ならば心を持っている。それゆえに、人間との関わり合いには自然と心のふれあいをもたらす。それは肉体を持つ人間との、いや、それ以上に真剣な心の鞘当てを必要とされる。
だから、単に絵画が目の前にあるだけでは体面を意味しない。
あおいと啓子が、再び井上順の絵画と本質的ないみにおいて体面するのは、かなり先のことである。
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『マザー=エルザの物語、終章 25』
再び、あおいと啓子がニフィルティラピアという地名を耳にするのは、もうまもなくのことである。しかし、マザーエルザという固有名詞を聞いたのははじめてのことだった。その授業はマザーと呼ばれる修道女の手によって行われる宗教の時間に行われている。
しかしながら、宗教とは言ってもことさら戒律じみたことを強制するわけでもないし、学校が奉ずるキリスト教アリウス派の信仰を強いるわけでもない。ただ、聖書を通じた物語を通じて、物の道理を教えるだけである。
言いようによっては、もっと、意地の悪い表現も可能だ。薄い毒を飲まされているということである。精神の発育に準じて、キリスト教精神をやんわりと教え込まされるのだから、そのやり方は頭の良いやり方だと言えるだろう。
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『マザー=エルザの物語、終章 26』
ここは、5年B組の教室。依然としてあおいの行動が波紋を呼んでいる。啓子は、親友の変容にどうやって対応したらいいのか、戸惑っていた。そして、クラスメートは二人を嵐の中心として、ただそれが過ぎ去るのを見守ることしかできない。
ここにいる誰しもが時間の停止を確信した。空気の分子の運動にいたるまですべてが静止し、何時になろうとも昼休みはおろか夜のとばりさえ降りないとさえ思われた。
しかし、嵐を止める魔法の杖を持っている魔女はいきなりやってきた。
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『マザー=エルザの物語、終章 27』
ちょうどそのころ、5年B組の教室では赤木啓子が入室したところだった。教師に命じられた書類運びという任務を果たし終えようとしていたところである。それを重々しそうな動作で教壇に置いたところ、友人が話しかけてきた。
「赤木さん、あおいのお姉さんが来てたわよ」
「え? 有希江姉さんが!?」
その驚きと喜びが微妙にブレンドされた表情を見ることは、あおいと言えどなかなか見られる代物ではない。
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『マザー=エルザの物語、終章 28』
教室に戻ったとき、あおいは息も絶え絶えな状態で、多分にクラスメートの同情を買った。少女の真珠色に輝く額には、脂汗のようなものが滲んでいる。霧を吹きかけた高級陶器のようで、反射光の美しさがやけに目立って痛々しい。
啓子にもそれが伝わったと見えて、心配そうに親友の顔を伺っている。
「大丈夫? 早く座ろうよ。それとも保健室に行く?」
あおいにしか見せない顔で言葉を投げかける。事実、二人の間に流れている世界には、第三者が入り込める隙を見いだせなかった。
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『マザー=エルザの物語、終章 29』
意識を失ってあおいは新たなる翼を得た。
ところが、いちど空に向かって羽ばたいてみると、それは秋の空のように小春日和の清々しい空間を飛翔するための道具でないことがわかった。
音もなく、少女は大地に降り立った。虚空に浮かんでいることに、そこはかとない恐怖と不安を怯えたのである。
しかし、そこは彼女にとってほんとうに安泰な場所なのだろうか。
思い出したくもない過去。言い換えれば、例え、どんなすばらしい大地にも、地下には地層があり、 その一つには悪魔の糞便で固められた層もあるということだ。
言わんや、げんざい、あおいが置かれている状態は混迷を極めている。その過去にはいったい、何があるのか。まったく想像できない。立っている大地がけっして、堅実でないことは微かに触れる今の状況が何よりの証左になるだろう。
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『マザー=エルザの物語、終章 30』
ふいに、あおいは、寝返りを打った。啓子はそれに喜びの感情を素直に表すべきだったのかもしれない。しかし、少女の心にはそれと全く違う感覚が芽吹き始めていたのである。どんなにふっくらとした容姿を持つ人間でも、顔に鋭角を備える場所がある。
一般に細面が美人の条件だと言われるが、たいてい、そのような人間は、その鋭角が鋭い。あおいもその例外ではない。首にブイの字を造る胸鎖乳突筋から顔につながるところ。即ち、顎である。 その部分から可愛らしい曲線を造る耳たぶに至るラインを見ていると、あるものが目の前にないことが悔やまれた。
スケッチブック。
そして、画材。
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『いじめ文学専用サイト』へようこそ!
本サイトでは、U15の少女を主人公としております。
なお、性的なコンテンツを含みます。18才以下の方は、即時、退去していただくようオネガイします。
本サイトが、内容の中心に置いているのが『いじめ』です。これから、数多くのいじめられっ子談を紹介したいと思います。まずは、トップバッターを連れてきました。西宮由加里さんです。
顱 慷害知ぁ
私は、西宮由加里といいます。高校二年生の、ふつうの女の子です。今の私を知っている人には、理解してもらえないのですが、中学の時にいじめられていたことがあります。
これから、語られる物語は、夢の中で出会った男性に話したことです。彼は、何でも、小説家志望だそうです。もしも、作品に悪いところがあったら、いくらでも注意してあげてください。
『由加里1』
少女は、闇の中にいる。それは、彼女の内面をも表していた。闇とは意識無意識のうちの無意識を意味する。一言で言えば、ぼっとしていたということだ。だから、ドアがおもむろに開いたことにも気づかなかった。
「由加里?もう寝たの?あれ起きてるんじゃないの」
「・・・・あ、ママ」
由加里と呼ばれた少女は、返答に窮した。
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『由加里2』
『由加里3』
『由加里4』
『由加里5』
『由加里6』
「ひどい!何だろう、これは?!」
翌朝、由加里は鏡に映った自分の下着姿を見て、思った。黒いボンデージ風の下着は、あきらかに、13歳の少女には似合わない。少女は、身長は155センチで、平均からそれほど低いわけではないが、そのほっそりした肢体は、年齢よりも一つか二つほど下に見える。
「恥ずかしい!」
由加里は思わず目を覆った。その日は、彼女にとって大変な問題を抱えているのに、さらに困難を抱えるなどと・・。
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こんにちは。西宮由加里です。ここまで、読んで頂いてありがとうございます。多少は、脚色が為されていますが、書かれていることは、結構、本当のことです。これから、性的ないじめが、始まります。
『由加里7』
安閑とした教室で、由加里がたったひとりで、英語の授業を受けている。
多賀の発音は、留学経験を自慢するなりに、それなりにマトモだった。しかし、それは、彼の人格や、教師としての資質にまったく関連しない。こんな状況で、平然とした顔で、授業ができるのだ。どう考えても、まともな教師ではない。
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『由加里8』
『由加里9』
「なんて、破廉恥な下着かしら」
「ぃいやああああああ!!見ないで!見ないで!!」
クラス全体がどよめいた。しかし、照美は冷静なまま話しを続ける。あたかも、予め、由加里の下着のことを知っているかのように、話し出す。
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『由加里10』
「由加里!どうしたの!?」
「ママ・・・・・・」
春子は、娘の顔を両手で包んだ。そして、その顔を眺める。由加里は、思わず目をそらす。
「由加里ぃ!」
「か、母さん・・・・・あ!ああああっっぁあああ!!」
由加里は、いきなり、母の胸に飛び込むと号泣をはじめた。
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ママに、いじめられていることだけは、バレたくなかったのです。でも、このとき、全部、打ち明けていたら、あそこまで、ひどいことにはならなかったと思います。
『由加里11』
6月の陽光は、新緑にきらめいて、生命の謳歌に満ちているはずだった。しかし、どうして、こんなにねっとりしていて、気持ち悪いのだろう。由加里は、隠れていたトイレから引きずり出されて、教室に連行された。ちなみに、どうしてトイレかと言えば、そこで弁当を広げていたからである。哀れな由加里は、もはや、ここでしか昼食を取ることを許されないのだ。
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ここまで、読んでくださってありがとうございます。由加里です。トイレで、ごはんを食べるのは、とても辛いことでした。四方の壁からつぶされるような気がするのです。私の中学のトイレには和式と洋式があるのですが、いじめっ子たちは、和式で食べろと言いました。和式だとうまく座れないのです。彼女たちは、それを知っていて、命じたのでしょう。
四時間目が終わると、お弁当を持って、トイレに行くように命令されます。具合が悪かった時など、無理矢理に押し込められました。そして、全部たべるまで、出して貰えませんでした。流さないように、上から監視されていました。だけど、ママが作ってくれたお弁当をトイレに流すことなんて、できるはずはありません。一番、何が辛かったって、お弁当に対して、ママに対して、悪くって・・・・・・・・・・・ごめんなさい。もう言えません・・ウウ・・・・・ウ
『由加里12』
『由加里13』
「アれい?どうしたのカナ」
「いやああああ!ぁ」
由加里は、大腿を狭めて、いじめっ子たちの視線を防ごうとした。上品なかたちの鼻梁が、恥辱に狭まる。
「西宮ったら、おもらししちゃったのかな」
ちょうど、放送委員の仕事を終えた似鳥ぴあのである。
「ぃやあ!ぃやあ!み見ないで!」
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本当に、辛い体験でした。西宮由加里です。よく、こんなひどい目にあって、生きていられたと思います。今、思い出しても涙が出てきます・・・・・・・・・。
『由加里14』
『由加里15』
『由加里16』
「なあに、朝から出かけるの?休みなのに」
春子は心配になって、娘の背中に声をかけた。
「由加里姉ちゃんたら、早いのね」
妹の郁子は、眠い目を擦りながら部屋から這い出てきたばかりだ。
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『由加里17』
似鳥かなんが、選んだのは、とある空き屋だった。
「・・・・」
「何しているの、入ってきなさいよ、はやくいじってほしくてたまらないんでしょう?」
「そ、そんな・・・・・・・・」
意地悪く言うかなん。
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似鳥先輩・・・・この人の名前は、もう二度と聞きたくないです。先輩は、私の弱みを全部知っていて、ああいうことをしたんです。ファーストキッスが、同性だなんて・・・・・・・。
『由加里18』
由加里は、帰宅するなり、風呂場に直行した。まだ、午後4時30分を回ったばかり・・・・・・・である。母である春子は驚いたが、何も言わなかった。
びりびりという擬音は、本来、水に対してふさわしいものではないであろう。しかし、今、由加里が浴びているシャワーは、まさに、その擬音そのものだった。水が痛い。それは、汚れた少女の躰に当たって、無機的な音が木霊する。
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本当にひとりでした。ミチルちゃんでさえ、信用できませんでした。
クラスの女の子のひとり、ひとりに、わずかな可能性を求めて、アプローチしました。もちろん、誰も口すら聞いてくれませんでした。
そんな辛い時、唯一の慰めがオナニーでした。自慰とはよく言ったものです。私は、いじめられる自分を思い浮かべてオナニーしました。もちろん、いじめっ子の中に、私もいるのです。もう一人の私は、先頭に立って、西宮由加里をいじめていました・・・・。本当にひとりでした。
『由加里19』
『由加里20』
『由加里21』
夜のしじまに、一つの果実がなった。それが腐って落ちるか、貴人に食べられるかは、果実しだい。
「痛かったですか?西宮先輩」
「全然、痛くなかったよ、貴子ちゃんが教えてくれた方法が、よかった」
「・・・・・・・」
小池貴子と高島ミチルは目を合わせた。
「でも、惨めだよね。こんなことまでしなきゃいけないなんて・・・・・」
由加里は、顔を自らの膝に埋めると、泣き出した。
由加里の目には、その日の昼間のことが、鮮やかに復活していた。
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『由加里22』
高島ミチルは、由加里と小池貴子を、富士山の麓にあるコテージに誘った。ミチルの伯母夫婦が経営しているのである。青木ヶ原樹海の近くにあるこのコテージには、テニスのコートが何面もあって、 それは、プロレベルの選手すらが、利用するほどである。あの西沢あゆみも訪れると聞く。ミチルは、彼女からサインをもらったことがあった。
「月曜が、創立記念日だから、三連休じゃないですか」と誘ったのである。
たまたま、海崎照美や似鳥かなんからの命令もなかった。
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『由加里 23』
昼過ぎにコテージに入った三人は、ミチルの母親が作ってくれたお弁当を手に、樹海の散策に向かった。おやつ代わりだと言うのだ。
もともと、高島家は体育会系の家である。運動少女たちが、どのくらい食べるのか、100も承知なのである。テニスコートの裏には、広大な樹海が横たわっている。そこは死の別名だ。磁石すら通用しない樹海。そこに、間違って、入れば二度と帰ることができなくなる。一方、自殺者は、それを利用して、自分を苦痛から解放される道を選ぶ。
人間の目に親しい緑は、その迷路の恐怖を和らげては・・・いる。しかし、それ故に、樹海はおそろしいのである。
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『由加里 24』
「西宮先輩、いじめられているんですよ」
いきなり、貴子が切り出した。ミチルは目を丸くしている。親友が、積極的に動く姿は珍しいからだ。
「それは、テニス部内のことなの」
あゆみが言う。予め、ミチルと貴子が後輩であることは知らされている。
「それはいけないな・・・・・・」
はるかは、まるで他人事のように言う。
「でも、はるか姉ちゃんは、同じクラスなのよね」
「私は、あまり親しくしてないし、口を聞いたのも二年になって一回か、二回ぐらいかな」
「じゃあ、教室で話しかけられたら無視しないよね」
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『由加里 25』
「やめて!来ないでええええぇ!」
「由加里!開けなさい!一体!何があったの!?出てきて、ママに説明しなさいぃ!!」
春子は、由加里の部屋のドアを激しく叩きながら怒鳴った。
由加里の自殺騒ぎは、必然的に、両親に知らされることになった。楽しいはずの旅行は、日曜日の夜のうちに切り上げとなり、その日のうちに、父親の運転する車で帰宅した。その最中、由加里は両親の質問には、一切答えなかった。
そして、帰宅するなり、自室に引きこもった。その上に、机やら本棚やらを放り投げた。ドアにバリケードを作って立てこもったのである。
部屋の中から、聞こえるのは、由加里の悲愴な泣き声だった。
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由加里です。ここまで、読んで頂いた方の中には、ここでようやく光が射すと想っている方もいらっしゃるのではないでしょうか?残念ながら、それは違います。本当の意味での地獄はこれからはじまります。
どうして、それを、彼に話すことができたのかわかりません。
あれから二年になりますが、ようやく、本当の意味で笑うことができるようになりました。ここまでなるために、信頼できる精神科医の先生や家族の愛、友達、それに・・・・・・・。とにかく、いろんな人の手助けが必要だったのです。
『由加里 26』
夏休みが間近になったその日、由加里は、いつもよりもさらにダークな心持ちで登校した。太陽が、まだ午前8時を回ったばかりだというのに、陽光がまばゆい光を放つ。
由加里の心の中は、それとは真逆に暗雲が立ちこめていた。昨日、すなわち、月曜日は、学校が創立記念日で休みだった。土日は当然のように休みだから、結果、三日ぶりに煉獄のような学校に赴くわけである。
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『由加里 27』
「ゆ、・・・・ううウウ・・・由加里は、・・ううィウ・・全身、汗まみれに、・・うウ・・なって上下に、・・ううウウウ・・動いている・・・・・お、男に、両手を、・・うウウ・・奪われ、背後から、・・ううウ・・付かれている・・・・」
由加里は、モニター上に、展開している映像を、文章にしていく。その間にも、はるかと照美の、指がにちゃにちゃと少女の性器に食い込んでいく。
「・・・・ぅああ!!」
「感じてる場合じゃないでしょう?」
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みなさん、こんにちは、由加里です。このころは、ほぼ毎晩オナニーに耽っていました。麻薬のように、中毒になっていたとさえ言えます。やらないと眠れなかったのです。オナニーをやって、やって、疲れていつの間にか寝入ってしまうという毎日でした。
新しいオナニーの方法も知りました。それは、悲しいことに、照美たちから受けるいじめを通じてのことです。
手術用のゴム手袋を使ってやると、飛び上がるほどに感じるということです。ゴムの感触が、キュキュと言って、とても気持ちいいのです。
みなさん、こんな由加里をヘンタイだとか言わないでください・・・・・・・どうか。
『由加里 28』
ガタン・・・・ガタン・・・・ガタン・・・ガタン。
午後4時半、初夏を過ぎた太陽はまだ、空にある。凶暴な熱を予感させる太陽は、地上を睥睨し、そこに棲む人間の幸不幸を完全に支配しているように見えた。電車の中は、冷房が効いているとは言え、その光線は、強烈な熱を有している。
京王線は、新宿行きの特急に、由加里たちは乗っている。少女の場合、無理矢理に乗せられたというべきか。
がら空きの車内には、由加里たち五人の他に、ポツポツとしか客は見えない。
ちょうど、由加里の向かいの席には、腰が90度に曲がった老婆が休んでいる。
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『由加里 29』
電車から降りた由加里は、すぐさま、後から追いかけてきた照美たちに捕まった。
「いや!いや!いや!もういや!」
泣きながら、激しく抵抗する由加里。しかし、いじめっ子たちは、無理矢理にトイレに押し込もうとする。駅構内を往来する人々は、この顛末を、まるで映画の撮影か何かと思っているようだ。
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『由加里 30』
石毛まりは、椅子に座って泣き続けている少女を見下ろした。まるで、刑事と被疑者の関係に見えた。
ここは、通常、万引き犯を連れてくる場所である。しかし、特別にそのために設えたわけではないが、結果として、取調室になってしまった。決して、万引きが減ることはあっても、無くなることはないからである。
しかし、この少女は万引きをしたわけではない。ただ奇矯な行動を石毛に見せたために、連れてきたのだ。
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『由加里 31』
由加里たち三人は、下北沢では有名なステーキ店に入っていた。個室のこの部屋は予約無しでは、この時間帯では部屋がとれない。淳一が常連だったために、余計な注文に応じたのである。既に、食事は終わり、恭しい(うやうやしい)手つきで給仕がコーヒーを持ってくる。
由加里は神妙な面持ちで、ふたりの会話を聞いている。それは、彼女が想像した恋人同士の会話ではない。音楽の話しばかりが続く。Assemble Night というバンドを彼等は組んでいる。
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『由加里 32』
夜の下北沢。そこは、由加里にとって未知の世界だった。時計店を盗み見ると、午後8時半を超えている。こんな時間に、ひとりだけでこんなところを走っている。それは現実感のない体験である。股間から込み上げてくる官能も、由加里を麻薬に誘うことはできない。
例え、おむつが必要なくらい濡れそぼっていても、少女はそれを気持ち悪いと思うだけだ。それに、ちょっぴり羞恥心が加味される。心臓がドキドキする。何処をどうくぐりぬけたのかよく憶えていない。ただ、ネオンサインが目にしみた。
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『由加里 33』
その日は一日中雨だった。きっと、梅雨の最後の一絞りだろう。小さいころは、雨雲が綿飴に見えた。雨を絞ると、完成するのだ、甘くて美味しい食べ物に変わる。
由加里は、しかし、今日の雨雲のようには行かないだろう。一涙で、いじめが無くなるとはとうてい思えない。天気はいづれ晴れるだろうが、残酷ないじめは続く、・・・・・たぶんずっと。
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『由加里 34』
「イヤアアああああ!!」
泣き叫んで暴れる由加里は、瞬く間に、四股をいじめっ子たちに押さえつけられた。
「ほら、もう一度、ママのお腹の中に卵を戻してやンな」
はるかが命ずる。
すると、有紀はほくそ笑みながら、性器に卵を埋め込んでいく。
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『由加里 35』
「こづえちゃん、『24の瞳』ってどんな話しなの?」
「とても破天荒な女教師の話よ、大石先生ってのが、田舎の学校に転任して、苦労するんだけど、渡された台本は、それから10年後の話しね、戦争が終わってからのことみたい」
ここは、向丘第二中学テニス部、部室である。校舎脇にあるプレハブの建物は、冷暖が完備されている。元々は、無化粧な内観は、少女らしい装飾に、リフォームされている。ミッキーマウスの張り紙は、その良い例だ。
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『由加里 36』
「あははは!帰ってきた、帰ってきた!」
「たっぷり、可愛がってもらったみたいじゃない、普段、誰にも相手にされないのにね」
「本当、一年生に、面倒見手もらったっていうじゃない!?西宮さん、よかったネ!1年生とはいえ、いい迷惑よね、こんなのの相手なんて!あはははは!」
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『由加里 37』
裁判は、6時限目に、厳かに始まった。道徳の授業という表向きである。今回は、担任の公認ということで、クラスメートの目の色がちがう。いつものように、手錠や腰ひもの演出こそなかったものの、クラス全体が、由加里を責める空気は、普段よりも、陰惨で残酷な空気に満ちていた。
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『由加里 38』
波乱の内に、裁判は終わったが、終わらせたのは、チャイムであって判決ではなかった。由加里は心身共に、さんざん打ちのめされた。その衝撃で、ぼっとしているうちに、終わったという感覚だった。
「ねえ、人間のクズ!はやく、移動しなさいよ!そこ、私の席よ!?」
「ひっ!!」
由加里は、背後から蹴り飛ばされた。床に両手をついたその姿勢は、まさに犬だ。
「西宮さん、鬼畜にふさわしい恰好ねえ、これからよつんばいで歩いたら?あなたにふさわしいんじゃない?!」
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『由加里 39』
由加里が妹に、平手打ちを喰わせるちょうど、2時間ほど前に、時間を遡ってみよう。
おまけに、空間的にもちょっと移動する。何?Google earthで見るならば、所詮は数ドットにすぎない。
夏休み直前の太陽は、時間の感覚を誤らせる。既に、帰宅すべき時間なのに、照美とはるかは、放送室に居座っていた。しかし、日が長いとはいえ、二人の影の長さは、彼女らに、帰宅の催促をしているようだ。それとも、不安の深さや広さを暗示しているのだろうか。
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『由加里 40』
京王線の駅は、何処も似ている。都心から離れるほどに、その度合いを強くしていくのだが、その疑似宮殿性である。ディズニーランドの、お城のように、そのコンクリートの塊からは、虚無ばかりが目に付く。由加里は、財布だけ持って、フラフラと、そんな駅の構内へと入っていく。
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『由加里 41』
その夜、金属に何か硬いものを打ち付ける音が、幾つも虚空に響いた。それは、一様に赤で着色されていたという。
由加里は、螺旋階段を走った。ひたすらに、夜の虚空を回転して、落ちて行く。この時、どうして、エレベーターを使うことを思いつかなかったのだろうか。冴子をまくためか。いや、姉が追いかけてくることなど、思いもよらなかったはずだ。
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『由加里 42』
貴子の誘いで、マックに行くことになった。
由加里とミチルは、かなりの時間、二人で対峙していたらしい。彼女に話しかけられるまで、二人は、そのことにすら気づかなかった。三人とも蝋人形のように、無言のまま、レジに押しかけると、夜の街がよく見える場所に席を求めた。トレーを運んだのは由加里である。
「夜景がきれいですね、こんな席で、ロマンティックな気分ですか?よくそんな気分になれますね、私はなれませんけど」
付き合っていながら、不満たらたらの体で由加里にあたる。
「ミチルちゃん・・・・・・・・・!?」
「ミチル!」
由加里は絶句し、貴子は切れた。
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『由加里 43』
邸町とは、何と、少女たちが通う中学の学区である。由加里の家から徒歩で、20分ほどの場所にある。
「じゃあ、明日にでも張り込みに行こうよ」
「まるで、刑事か探偵みたいね」
「バカ、ミチル、遊びじゃないのよ」
「・・・・・・じゃ、帰ろうか」
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『由加里 44』
「さあ、これから行きますよ」
担任である大石久子の号令で、教室を出る。由加里を囲むのは、照美、はるか、高田、金江。それに付属するように、穂灘翔子、青木小鳥。男子は、山形梨友、丸当大善の二人である。ひとつ、不思議なことがあった。由加里は、出発の前にトイレに行こうとしたとき、高田と金江に妨害されたのである。
「幼稚園のトイレに行こうよ」
「ど、どうしてですか?」
「クラスのペットで、奴隷が口答えするんだ!?」
「・・・・・・・ハイ・・」
由加里は、頷くほかなかった。
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『由加里 45』
赤い車から、颯爽と出てきた婦人。女性にしては、相当の長身だ。躰を少し折らないと、車から出られなかった。
年齢は、30を幾つも超えていないように見える。シックな感じの黒い服とタイツからは、大人の女性の官能が、そこはかとなく漂ってくる。肌の張りは、ほとんど失われていない。しかし、目や躰ぜんたいから発せられるエネルギーは、20代の小娘のそれではない。
海崎百合絵、照美の母親である。
顔面は蒼白で、目は確と前方を睨みつけている。
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『由加里 46』
由加里の目に飛び込んできたのは、赤い車だった。その車体は、妖しく煌めいてきた。まるで、魔女然として、やってきた。
――――あれにぶつかれば、死ねる。
少女は、涙にまみれながら、身を投げた。
衝撃。
強烈な、衝撃だった。身体が、何処かに持って行かれるような気がした。見えざる巨大な手に、摑まれて、躰をもがれるかと思った。しかし、既に、いじめっ子たちの身の毛のよだつ行為によって、身も心も、十二分に、切り裂かれているのだ。それが、実際に肉体に起こっても、おかしくはなかった。
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『由加里 47』
「さ、冴・・・・ウ・ウ・ウ・ウウ・・・・・・・・・!?」
「由加里ぃ!!」
由加里は、まだ覚醒がしっくりいかない状態で、入室者の顔を見た。頭の中で、渦巻いている思いを言葉にしようとしたが、なかなかうまくいかない。
「さ、冴子姉・・・・・・・!!」
「もう、何も言わなくていい ――――――――」
冴子は、黙って妹の黒髪に触れた。
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『由加里 48』
西宮冴子は、妹の無事を確認すると、とんぼ返りでマンションに帰宅せざるをえなかった。後ろ髪引かれる思いだったが、大学の試験のために、やむを得ない処置だったのである。
病院を出て、2時間ほどで、自宅マンションのてっぺんが姿を現す。この2時間のドライブの間、冴子の頭の中は、後悔とやるせない思いで、ぐじゃぐじゃになっていた。
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『由加里 49』
清冽な朝日が、病室に差し込んでくる。もう、夏休みは間近だ。しかし、いつものウキウキとした気分は皆無だ。
このところ、由加里は自己嫌悪に苦しんでいる。自分は醜くて、臭いのだ、だから、みんなに嫌われていじめられる。そんな固定観念にはがいじめにされている。そのために、自分の醜い姿を顕わにする夏の太陽は大嫌いになった。他人から見れば、嫉妬するほど知性と容姿に恵まれているにも、かかわらずだ。
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『由加里 50』
「あーら、どうしたの? 赤ちゃん? 出しちゃいなさいよ ――――」
「ヒイ! ひどい!ィイイイイ」
似鳥可南子の言葉は、由加里の精神ばかりか、肉体まで打ち砕く。悲鳴は、それによる苦痛の表明である。溲瓶を押しつける圧力はさらに増していく。
「ムグ・・ムギ・・・ウウ・ウ・・ウ・ウ」
緊張のあまり、膀胱付近の筋肉が過活動してしまったのだろう。尿がなかなか、顔を出さない。
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『由加里 51』
教室というのは、学びの室(へや)だったはずである。しかし、いつから戦場になったのだろう。しかし、こんな命題に、きょうび、誰も解答しようとすらしない。生徒はおろか、教師すら、こんな命題に意味があるなどと、牧歌的な夢を見たりはしない。
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『由加里 52』
由加里の病院に、鈴木ゆららが現れたのは、入院して、二日目のことだった。受業が終わるとすぐ、その足で病院に向かったのである。しかし、由加里は、ゆららの顔を見つけると、すぐ布団を覆ってしまった。
「由加里、どうしたの? せっかく来てくれたのに」
母親である春子が、声をかけても、梨の礫だった。
「西宮さん、みんなで手分けして、ノート取ったんだよ ―――」
ゆららの声は、由加里には地獄への招待にしか聞こえなかった。
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『由加里 53』
姿を現したのは、幼児のように、指をくわえている由加里だった。
それは、もしかしたら、ゆららの錯覚だったのかもしれない。しかし、少なくとも彼女の目にはそう見えたのである。
「由加里、鈴木さんがお見舞いに来てくれているのよ」
社交辞令のような、春子の言い方。病床の娘よりも、ゆららに気を遣っているように見える。
「西宮さん ―――」
ゆららは、改めて由加里を見てみる。
まるで金目鯛のような瞳は、一体、何処を見ているのかわからない。それは完全に無垢な乳幼児のそれとは、自ずから異なる。
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『由加里 54』
その花は、赤いスイトピー。アイドル全盛時代に、かつて、そのような歌を歌った歌手がいたはずだ。しかし、その歌手の名前が思い出せない。何というアイドルが歌っていたのだろう。
由加里は、この花を見せられたとき、一抹の不安がよぎるのを感じた。
赤い血の塊が浮遊している。
まるでその外観は赤血球そっくりだ。それも、重症の貧血患者のそれのように、いびつな姿は、由加里そのものを暗示しているようだ。
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『由加里 55』
「由加里ちゃん・・・・・・そう呼んでもいいんだよね」
「・・・・・・・」
由加里は黙って頷く。まるで、ぬいぐるみの首が曲がったように、見える。
「今日、一日だけで、信頼されるのは無理だってわかってるよ。私たちが、由加里ちゃんにやってきたことを考えればね ――――――」
この台詞は、高田でも、照美でもなく、ゆららの独創だった。
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『由加里 56』
「ほう、早速、創作意欲に燃えてきたようだな」
鋳崎はるかは、ほくそ笑んだ。
由加里は、ほぼ本能的に目を背ける。それは、怖ろしいものから、身の安全をはかるための当然の行動だろう。
「ウウ・・・ウ・・ウ・・ウウ・・・ もう、もういじめないでください!ウウ・・ウ・ウ・ウ・・ウ・・・うう!」
まるで園児のように、両手で顔を覆って、泣き出す。
「よくある現実逃避だな、西宮、だけど、これがおまえの現実なんだよ! 見ろ! 目を背けるな!」
はるかは、本を一冊、彼女の鼻先に押しつけた。さきほどまで凝視していた18禁本である。整った鼻梁が歪む。
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『由加里 57』
白亜の宮殿に、声に依らない泣き声が、響く。その廊下を照美とはるかが歩いている。外部から見ると、大小の箱を取り合わせたように見える。その簡素な建築様式は、ル・コルビュジエを思わせる。
モダニズム建築が、宮殿と矛盾すると言う人がいるかもしれない。
しかしながら、アラビア世界あたりに、そのような宮殿があったような気がする。病院という女性を収容し、性的な羞恥を与える施設には、相応しい比喩であろう。言うまでもなく、この文脈においては、イスラム世界のハーレムを志向しているのだ。
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『由加里 58』
「ヤグググググッメエエエエエエ・・・・・・」
「あははは、由加里チャンたら、やぎさんになっちゃったの? 」
可南子は、由加里の眼前で、高笑いをする。
彼女の顔に、絶体絶命の4文字が見えた。膣を貫く異物感よりも、精神的なショックの方が強い。 精液を注入されるという恐怖が、少女の華奢な体に侵入しつくす。彼女の美しい肌を詳しく見て貰えばわかると思うが、細かいキメからも、恐怖は、冷や汗のようにあふれている。
可南子は、そのガスを吸って悦に浸っているのだ。自分が支配するペットが嘆き悲しんでいる。その事実をより強める演出の働き、料理で言うならば、スパイスの役割だろうか。
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『由加里 59』
由加里は、可南子に、命じられるままに、そのおぞましい料理を噛み続ける。
「ふふ、よく噛んでから、呑みこむのよ。そうじゃないと消化に悪いからね」
「フグウ・・ウ・・ウ・・ウ」
さらに畳み掛けてくる可南子の言葉に、戦慄すら憶える。由加里は、自分の口が自分のものではないような気がする。今、動いているのは、何ていう器官だろう。何のために上下しているのだろう。
咀嚼しながら、五里霧中の思考を続ける。
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『由加里 60』
さて、ここで、時間を少し、巻き戻してみようと思う。何、そんなに前のことではない。由加里が耐え難い陵辱を受けている最中のことである。
その時、三人の少女が連れ立っていた。鋳崎はるか、海崎照美、そして、鈴木ゆらら。以上の三人が、アルミニウムの靴音を立てていた。そう、友人を見舞ったすぐ後のことである。
ここは、由加里が入院している病院の表玄関、いわば、ロビーのような空間である。さて、三人が行った見舞いとは、どのようなものだったのだろう。
ちなみに、それは、同時に、行われたわけではないが、たいへんに、友情という点において、比類ないくらいに豊かだった。
しかし、それにしては、三人三様、複雑な色を顔に乗せている。
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『由加里 61』
少女の耳には、イヤフォンが詰め込まれている。そこから聞こえてくる音楽は、深海を泳ぐ紳士淑女のようなものである。彼らは、しかし、いくら金銀のような美しい色で飾られようとも、その真価を理解するものは、ひとりしかいない。
イヤフォンは聴く人のみに、音楽を観る視力を与える。
深海においても視力を有する者。
それは、海神、ネプチューンである。
ただし、音楽を嗜む海の神というのは、絵にならないか。何故ならば、水中を音が伝わることはないからだ。もっとも、神話に科学を持ち込むのは、無粋かもしれない。
非常灯が、妖しく緑に光る。
夜のとばりが降りた病院は、深海に似ている。『出口』と表示された文字は、闇の中に、何か投げかけている。その冷たい光は、蜃気楼のように、うつろで、実体がないように見える。
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『由加里 62』
「ママ、もう面会時間終わりが近いよ ―――」
「何よ、母親を追い出すつもり?」
春子は、娘の言葉におもわず、鼻白んだ。自分の提案に対して、そのような返事が返ってくるとは、夢にも思わなかったのである。
―――由加里の個室は、18時を迎えようとしていた。それは、この病院の面会時間が終了する30分ほど前のことである。 続きはクリック
『由加里 63』
女は、鼻歌を歌っている。口笛を響かせたいと思ったが、ごく控えめに、ハミングを響かせるに留めていた。
自分に聞かせるためならば、周囲にとどろかせる必要もない。それは、ストレスのたまることだが、あいにくとここは、野中の一軒家ではない。あるいは、ここは数万の観客を擁するコンサート会場でもない。すんでの所で、そこに立ち損ねた彼女は、余計な感傷を穿つためにここにいるわけでもない。 少なくとも、そう思いたくなかった。
しかし、今、ここにいる以上、そんなことは眼中になかった。いや耳中になかったとでも表現すべきだろうか。 続きはクリック
『由加里 64』
「私、どうしたら、照美さんとはるかさんに・・・・・・・・」
その空気の乱れが、人の耳に到着するまえに、語尾は、かんぜんに雲散霧消してしまった。それは、ホームランと見せて、フライにすぎなかった。
しかし、はるかは憮然とはならない。列車の窓に映るゆららの顔が、あまりに悲しすぎたからだ。透明すぎるその容姿と表情は、はるかの心を融かしていた。一般に、ドライアイスのハートと異名を持つはるかの心は、限りなく融点に近づいていたのである。
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『由加里 65』
「あははは、なんて臭いかしら? これじゃ、奇形児しか生まれないわね。それにしてもなんて臭う月経なのかしら?臭い!臭い!!臭いわ!!」
少女のハマグリが鉄臭い血液を吐き出す。それを見ると、すぐに可南子はクラクラと笑声を立てる。すると、女の鼻梁がヒクヒクと動く。そこから腐ったマヨネーズの臭いが漂ってくる。
「ウウ・・ウ・ウ・ウ・ウウ!!」
由加里の目には、異常にきらきらしている可南子の鼻梁がやけに目立つ。脂を塗り付けたかのように、いやらしく光を反射する鼻梁は、女のいちばん、醜い部分を暗示しているように思えた。
男ならば、一瞬で卒倒しそうな腐った臭いのなかで、二人は相対していた。はたして、どちらが臭いを発しているのか、傍目にはわからない。病室は、自分の胎内で行われている行為をどのように感じていたのだろう。腹が痒いとでも思っていたろうか。
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『由加里 66』
「はーい、笑って、笑って!」
年甲斐もない笑い声を上げて、可南子は由加里に携帯を向ける。彼女の指が動くと同時に、由加里はムリに笑顔を作った。それは片栗粉で固められている。
「ふーん、そういう態度に出るんだ? アレ?」
粉臭い味に舌までやられた可南子は不満の表情を造った。由加里に戦慄が走る。今や、可南子の表情のすべてに、敏感に反応する奴隷になってしまった。それが楽しいのかやや機嫌を取り戻す。
「なあに? 笑えないの?ママと遊んであげたのに楽しくないの?」
「ヒ?・・・・?!」
ただでさえ引きつった笑顔が、精鋭化した恐怖によって、さらに硬化する。目尻から崩れた皮膚がポロポロと落ちる。夜に散らばった水晶の美しさを彷彿とさせた。それは肌の流す涙かもしれない。
「うふふふ」
可南子は悪魔特有の笑いを浮かべる。
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『由加里 67』
『鬼』は自らの車に寄りかかって文庫本を手にしていた。その様子は異様さを極めている。
街を歩く人たちは、ほとんどある距離にいちどは立ち止まって様子をうかがう。そして、しばらくすると去っていくのである。明かに一定の距離以上に近づくことができない。それは、プライベートエリアというわけではない。明かにそれよりも遠いからである。むしろ、彼女のオーラに惹かれ、あるいはそのオーラに妨げられている。そういう感じなのだ。
それに加えておかしいのは、当該人物の自意識である。自分が人を惹き付ける存在であるという自覚が、明かに欠如している。
鋳崎はるかもその例に漏れなかった。いや、普通の人たちよりもその人物の見えぬ力に圧倒されていると言って良いだろう。
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『由加里 68』
南斗太一郎くんへ
いつも、あなたのこと見ています。授業中も休みもずっとです。体育や家庭科でも、いつも太一郎くんの顔を思い浮かべています。
由加里は、あなたのことが大好きです。
太一郎君のことなら、なんでもできちゃいます。裸になれって言われたら、何時でも、何処でも、なっちゃいます!
好きです!
お願いです。由加里を恋人にしてください。
あなたの永遠の恋人 西宮由加里より
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『由加里 69』
「ねえ、お姉ちゃん、どうしたの?」
知らない子供がうなだれた由加里に風車をプレゼントしようと差し出した。しかし、少女はそれに気が付こうとせずに、もくもくと自分の世界にはまりこんでいる。この病院では彼女しか知らないはずの過去の世界に、手足だけでなしに、頭まで完全に浸かってしまっている。
「ヘンなの!?」
「ほら、和之くん!」
これまた知らない看護婦の声が病室の一部を黄色に変えると、子供は風車をベッドの上に投げ入れた。そして、奇妙なものを見る目で由加里を見上げると廊下へと掛けだした。
『由加里 70』
病院の夕食は早い。大抵、午後6時には患者のベッドの上にトレイが乗っているものだ。特別に設えたテーブルは、上に物を置くと頼りなく揺れる。ノートパソコンですら、キーボードを打つたつたびに、年老いたウグイスのように情けない音を出す。それはほぼ悲鳴に近い。
まるで今の由加里を写し取ったポートレートのようだ。ルノワールのような印象派ではなくて、ルネサンス時代のキリスト教絵画のように、精密、緻密な筆致により人間そのものを紙上に再現した絵画のことだ。
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『由加里 71』
由加里はふたりの顔を並べてみた。
塚本誠二と南斗太一郎。
両名とも自分を待ちかまえている悪魔たちだ。いじめられている自分を求めている。しかし、それは同性のいじめっ子たちが少女に求めるそれとは何かが違うように思える。いや、もしかしてそう思いたかっただけなのかもしれない。思えば、あの二人のような人物にそれを求めるくらいに、由加里は追いつめられていたのである。
夕食後、少女はすぐに消灯してしまった。まだその時間までそうとう残っている。
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『由加里 72』
「ぃイやぁぁァ!」
くぐもった声が薄暗い部屋に充満する。それはこの部屋の主である埃と婚姻して、不実な夫婦を形作っている。
南斗太一郎と西宮由加里もそれに習っていた。
擬装の恋人。もちろん、少女が望んだことではない。
そもそも、この太一郎という少年は、由加里にとって真冬の小虫ほどにも印象に残っていない。小虫ならば、それでも不快という感情は残るだろう。
しかしながら、彼には印象らしい印象を感じることがなかった。言うなれば、透明人間と同じである。それは塚本誠二も同様だ。
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『由加里 73』
「どうしたの?」
由加里の剣幕に「お姉さん」は首を窄めた。まるで思いもよらずに熱いやかんに触れたときのように、手を引っ込める。
少女は泣き続けている。そのようすは梅雨時の鬱陶しい雨音のようだ。
「お姉さん」は困ったような顔をした。
甘酸っぱい匂いのするこの少女に何の秘密があるというのだろう。
局所を隠そうとするその姿は、たいへん可愛らしく仄かな意地らしささえ見て取れた。白一色だけが支配する殺風景な病院にあって、一輪咲いた可憐な花だった。
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『由加里 74』
神崎祐介は物陰で震えていた。事もあろうに、この豪毅な男が由加里の泣き声を聞いて股間を縮み上がらせていたのである。
はじめ、祐介はいつものように威勢を轟かせるはずだった。誠二と太一郎などという小物は、祐介が一睨みするだけで世界の塵と化すはずだった。しかしながら、ふたりに責め立てられて許しを懇願する少女の声を聞いたとたんに、気を萎えさせてしまったのである。
もはや、かつての祐介の勇名は地に落ちたと言ってもいい。ただし、この場に誰もいないのでことさら風潮されることもないが、いちばんそれを許さないのは、祐介自身のプライドなのである。かと言って、いちど縮んでしまったものは簡単なことで復活するものではない。
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『由加里 75』
しかし、すぐにゆららの視線に気づくとあゆみは、何か重大なことを気づかされたような顔をした。あたかも、出陣寸前の騎士が戦いを前に矛を収めるように、それは重大な決意に見受けられる。戦闘までに、人は相当な精神の高ぶりが必要だろうが、いちど完成形にまで準備できた精神の高揚を鎮めるのは、端で見るよりも大変だろう。ゆららは、その真意を測りかねるようにあゆみの顔をさりげなく見遣った。
「そ、それにしても、はるかったら本当に大人げないわね ――――」
「え?」
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『由加里 76』
「はあ、はあ、はあ」
由加里は、淡い呻き声を上げた。別の言い方をすれば、深い森に燦然と突き刺さる木漏れ日のように見えたと表現すべきかもしれない。しかし、それは加害者にしか通用しない。
暗室の中で、外から侵入してくる外灯によって辛うじて照らし出されている少女の姿は、囚われの女神を思わせた。古代ギリシア人は、有名な女神デメテールの娘、ペルセフォネにその原型を見ていたのだろうか。きっと敵方に囚われたお姫様のような存在があったにちがいない。それを神話の人物に重ね合わせたにちがいないのだ。
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『由加里 77』
「女の子なのに?」
「ウウグググ・・・ハイ」
まるで自分自身の死をモールス信号で表すように、由加里は答えた。
「よく言っていることがわからないんだけど、あいにくと、私は、ごくノーマルな人間なのでそのヘンのことは詳しくないのよね。誰かと違って・・・・・」
自分のことは何処かの棚に上げて、大胆に言ってのける。おそらく、その棚は、この地球上の何処にも存在しないにちがいない。近くて、太陽系の外縁くらいだろうか。
一方、由加里は、まっすぐに妖女の侮辱を受けて止めていた。
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『由加里 78』
はるかと照美、それにゆららの3人が大人を巻き込んで、青春ドラマに明け暮れている時に、別の空間では人倫と人間性を同時に無視した行いが続いていた。
それも病院という清潔と奉仕の白に塗り込められた場所においてのことである。暗い病室の中では絶対的強者が弱者を思うがままにしていた。まさにしたい放題とはこのことであろう。
白衣の天使は妖女となって幼気な少女に絡みついている。大蛇が小蛇を捕って喰おうという絵画が額に嵌ってひとつの作品になろうとしている。
「ァァ・・・ウウウ、ウ・ウ・ひ、いや・・・・・や、やめて・・・・・ウウ」
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『由加里 79』
鈴木ゆららが見つめている闇は確かに深かったが、それ以上の暗がりに沈んでいたのは、由加里のふたつの大きな眼(まなこ)だった。
虚ろな目は何を見ているのかわからない。双眸は、完全に見引かれているというのに、全く光を反射しない。その奥にはブラックホールが隠されているのだろうか。
それは何でも吸収する挙げ句、光さえ溜め込んでしまうというから、どんなに高性能な天体望遠鏡を夜空に向けても、確認できないらしい。すると、由加里の黒曜石も闇の中に埋もれてしまった可能性がある ―――否、闇そのものに変わり果ててしまったのかもしれない。
――――あらゆる光を吸い取ったあげくに。
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2年3組、女子名簿
由加里の元クラスメートの女子を紹介します。
本当は、名前すら思いだしたくない子ばかりです。さんざん、浴びせかけられた罵声や、嘲りが、今、ここにあるかのように、思いだしてしまいます・・・・・・・・・。
でも、いいことがなかったわけでは、・・・・・・・・ありません。こうして生きているのですから・・・。
今のところ、交流があるのは2人だけです。交流どころか、今では親友と言える関係までに、なりました。
中学テニス部、女子名簿。
テニスは、小学校のときから大好きでした。あの西沢あゆみになりたいと、子供心に、思っていました。胸をわくわくさせて、中学にあがるなり、入部しました。
一年生のころは、夢のように楽しかったです。優しい先輩たちに、仲の良い友人たちと友情をはぐくみました。だけど、2年になって、しばらくして立場がガラリと変わってしまいました。教室で、始まったいじめは、部活にまで広がり、可愛かった1年生にまで、いじめられるようになりました。尊敬していた先輩たちは、ただ見て見ぬフリを決め込んでいました。・・・・・・とてもみじめでした。
西宮家、家族
私の大切な家族です。もしも、彼等がいなかったら、今の私はいないにちがいありません、楽しい高校生活なんかなかったと思います。
もっとも、一番辛い思いをさせられたのも・・・・・・・みんなだったのですが・・・・・・・・・。
学外、主要キャラクター
学外の人たちで、私に、大きな影響を与えた人です。特に、この人は、私は、本当に会ってよかったのか・・・・・・・とさえ思います。でも、会わなかったら、今の由加里はないんです。
向丘第二中学教師名簿
二度と、思い出したくない人たちとは、この人たちかもしれません。
『由加里が借りたエロマンガ、小説』
いじめられている時に、借りた漫画や小説です。最初は、単純な複製を命じられたのですけど、後に、創造活動の材料になりました。当時は、本に触るのもいやでした。顔から火が出そうになりました。今、思うと、とても可愛い子でした。
一体、だれのせいでこうなったんでしょう?!
「ねえ、逃げないでよ!だれのせい?ねえ?!」
由加里の夢日記
ここでは、由加里の夢日記など、私のプライベートなことを公開しています。えらそうなことを言っても所詮、私は、露出狂なのでしょうか?あんまり、詳しく見ないでくださいね。横目でちらりと見て貰えばうれしいです。
由加里日記
由加里の日記です。私がされたいじめが、事細かに書いてあります。
『由加里 2年3組名簿、その1』
『由加里21』
女子18名
青木小鳥
麻生珠美
鋳崎はるか・・・・・・・準主役
<海崎照美・・・・・・・・・準主役
海原ゆき
金江礼子
工藤香奈見
佐藤こあら
猿渡百合絵
鈴木ゆらら
高田あみる
西宮由加里 ・・・・・・・・・主人公。
似鳥ぴあの
原崎有紀
藤崎さわ
穂灘(ほなだ)翔子
真野京子
水崎ゆらら
『由加里21』
女子18名
青木小鳥
麻生珠美
鋳崎はるか・・・・・・・準主役
<海崎照美・・・・・・・・・準主役
海原ゆき
金江礼子
工藤香奈見
佐藤こあら
猿渡百合絵
鈴木ゆらら
高田あみる
西宮由加里 ・・・・・・・・・主人公。
似鳥ぴあの
原崎有紀
藤崎さわ
穂灘(ほなだ)翔子
真野京子
水崎ゆらら
「そうだ。学校戻らなきゃ ――――」
「陽子ちゃん!?」
まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!
どんな過酷な状況下においても密かに冷静という名前の花を咲かせる春実である。何か言わねばならない。
陽子は、今の今まで見せていた動揺をあさっての世界に投げ捨てて、普段の自分を演じている。しかし、その演技はあまりに見え透いていて、ところどころにほころびが見いだせる。
すこしでも突っつけば、風船のように萎んでしまいそうだ。いや、単なる空気が入った風船なら大惨事になることはないが、水素100パーセントの上に失火となれば、もはや改めて描写する必要はないだろう。
大惨事である ――――それでもあえて言えというならば。
陽子は、このまま外出すれば、赤信号でも直進していまいそうに思えた。愛するわが子が凶暴な唸りを上げる車に飛ばされる。そんな残酷な映像が目の前に現出する。
「お、お願いだから、ここにいてちょうだい!! 陽子!!」
我が手を娘の制服に食い込ませて、懇願した。身体はまだランドセルを背負っていたころと変わらないために、余った衣服が夏枝の手を翻弄する。
――――この子は、まだこんなに小さいんだ! ルリ子とそう変わらない。
その観測は完全に誤っていたが、かえって、夏枝の陽子に対するあふれんばかりの愛情を暗示している。
春実は、陽子を押さえながら、思わず泣きたくなった。感情の起伏に乏しい陶器のような美貌にうっすらとこの時ばかりは感情を表す。
「陽子ちゃん、あのね ――」
完全に気が動転してしまった夏枝の代わりに、春実が説得に出ようとしたとき、けたたましいチャイムが鳴った。いや、長崎城主の豪邸だけに、その音はごく上品だ。しかしながらら、この時ばかりは カケスのわめき声に聞こえた。
カケスとはその鳴き声が激しいことから、かまびすしい人間を暗示する比喩によく使われる。
二人にとって、まさに呼び出し音はそれにしか聞こえなかったのである。
ところが、次に聞こえた声は耳に親しみすぎていた。
「陽子ちゃん、どうしたの? みんな待ってるんだよ!」
「え? 永和子!?」
春実は目を丸くした。思いも掛けない人物が来訪したからだ。言うまでもなく、彼女の長女である財前永和子、陽子とは長馴染みの親友である。いわゆる竹馬の友というやつである。
「永和ちゃん!?」
陽子の視線はまだ虚空を彷徨ったままだ。まるで目が見えないかのように見える。
空気を切り裂くような声は、玄関からかなり距離があるはずのこのリビングに直で響いてくる。
「あの子ったら ―――」
春実は頭を抱えた。親友の冷静を失った顔を見物するには、あまりに状況が危機に瀕している。
「永和ちゃんに入って貰いましょう ―――」
「おい、夏枝!」
「永和ちゃん、今行くよ!!」
そう、朗らかに宣言すると、夏枝と春実の押さえをすり抜けて玄関へと走り去ろうとした。
「あ、そうだ、ヴァイオリン忘れちゃった ――――ちょっと、待ってね」
陽子は、螺旋階段を回転しながら上昇していく。
「ああ、あの子どうしたのかしら?」
「あまりにショックな体験のために、一時的な記憶喪失になったのかしら」
春実の声は、全く興味もない科目の教科書を音読しているかのように抑揚がない。
「お春ちゃん、あなたは何時精神科医になったのよ」
「田丸礼子っていう精神科医と知り合いになったのよ、彼女が教えてくれたの。こんな仕事をしているとね ―――」
二人の精神も尋常ではないようだ。どうやら、非常事態に陥るとおしゃべりに興ずる。そのことで、理性を保とうとするのは、古今東西変わらない女性という生き物の性質だろうか。
春実は尋常でない精神を振り切るように玄関に向けて叫んだ。
「永和子、入ってきなさい!」
「え?ママ?!」
けたたましい足音を立てて入ってきた永和子の顔には、意外という文字が顔に書いてあった。
「永和子!」
「え? ママ!??」
見たこともない母親の顔に、驚く暇もなく身体を引き寄せられる。次の瞬間、耳を喰われるかと思った。
少女の耳に食い込んできたのは、母親の歯ではなく言葉だった。しかし、その言葉は、気を失うほどに衝撃的な内容を含んでいたのである。
「ママ、それ、本当!?」
「嘘で、こんなこと言えるわけないでしょう!? とにかく陽子を外に出すわけにはいかないの、今の あの子を外に出したら、トラックに飛び込みかねないわ」
―――お春ちゃん。
きょとんとした顔で、親友を見つめ続けながらも内面においては怪訝な思いを否定できずにいた。
―――この子の陽子の対する気持は、何なのだろう?
確かに、親友の娘という設定をはるかに超えている、春実の陽子に対する熱い視線は。それは不思議な愛情に満ちている。実の娘に対する情愛とは違う別のエキスが混入しているようだ。しかし、今は、そんなことを忖度していられない。
「永和子ちゃん、先生に電話して、陽子が具合悪くなったって伝えてね」
アールデコの受話器を指さす。自分なら、彼女を呼び捨てにはできない。それは、可愛いとは思うが。
気が付くと陽子がヴァイオリンを持って立ち尽くしていた。
「私、全然、具合悪くないよ ――」
「陽子ちゃん・・・・・」
強いて冷静を保っているのがわかる。それこそ号泣しながらソファーを破って、中の羽毛を部屋中に飛び散らせたいだろうに。
少女は、舌に黒鳥の舞を強制した。
「私を騙していたのね、永和ちゃんも知ってたんだ。それに町の人たちも」
「ええん、知らないよ、今、知ったんだよ」
教師との話は済んだのに受話器を持ったままの永和子は、慌てて弁解する。母親そっくりの瓜実顔の、上品な容姿だがその内面は、母親とは一線を画すようだ。危機を目の前にして、とうてい、冷静を保っていることができない。
どうやら、みんなに騙されていたことが我慢できなかったようだ。すると、そのことを彼女は悟っていたことになる。
「みんな・・・・・・・・それに、ルリ子さん、いや、お姉さんが可哀想・・・」
―――こんな時にルリ子のことを考えるなんて、貴女はほんとうに、私の娘よ!あの子のことをあからさまにしたら、ほんとうの母娘でないことまでが、明かになっちゃうと思うと!だから言えなかったの!
夏枝は言いたくても言えないことをわかりやすい方法に変換した。
それは ―――。
それは、―――。
涙である、いわゆるひとつの。
光るものを母親の双眸に見いだした陽子は、凍りついた。しかし、それはショートしかかった少女の心を冷やす役割を担うことになった。
この時、陽子は悟ったのである。
春実が言わんとしたことのほんとうの意味のことである。18歳になるまで知ってはいけない。その中身自体のことではない。
どういう理由が内包しているのか、わからないが、真実という黄身が詰まっている卵の殻を傷付けてはいけないらしい。もしも、そんなことをしたら、自分はおろか、自分のことを思ってくれている沢山の人々を傷付けるかもしれない。
根が素直な少女はそう理解した。
我を通すことを止めたのである。しかし、知ってしまった以上は、本来なら自分の姉がもうひとりいたということを否定することはできなかった。何としても墓参りをしたい。
それにしても、我が家に彼女が存在したという足跡がないということは、何ていう不自然さだろうか。仏壇はおろか、 写真の一枚もないのだ。それほどまでに自分に隠しておきたかったのだろうか。その理由は何か。
―――――もしかしたら、自分に聞かせたくないくらいに残酷な方法で殺されたのだろうか。それにしても、それを自分に報せないほどの方法って?
ソファに座らされ、改めて煎れられた紅茶をすすりながら思った。目の前にはレモンケーキが切り分けられ、甘酸っぱい匂いが漂ってくる。それに母の愛を感じながらも、鋭敏な少女の知性は、正解を求めて迷路の出口を捜していた。
そんな少女の思考を止めたのは春実の声だった。そこに笑顔が出現した。
「陽子ちゃん、食べ物の恨みは根が深いのよ、もしも、あなたたちが来なかったら、おばさんが独占できたのよ ―――」
「えー? おばさん、独占する気だったの?」
今度は不満そうに柔らかで品の良い頬を膨らませる。むくれた陽子だったが、すっかり、春実に籠絡されたことに気づいていない。やはり、鋭敏な知性を持ち、年齢よりも大人びた陽子とはいえ、ふつうの中学生の、それもランドセルから肩掛け鞄に変わったばかりの、少女にすぎないのだろう。
しかし、その年齢よりも幼い中学生が側にいた。陽子がしないような大きな口でレモンケーキを頬張っている少女だ。
「こら、永和子! もっと、遠慮して食べなさい! それに何であんたまで食べるのよ!」
半ば笑いを込めながら、春実は、娘を怒鳴りつけた。
それが契機になって、リビング中に温かい笑いが充満する。
この時間が永遠に続けばいいと、陽子は思った。しかし、その心の何処かにおいて、黒くも、鋭敏な知性が蠢き始めていたのである。
人間とはなんて迂遠な、いや、それだけでなく自虐的なのだろう。心とは時に、自分が傷つくことを望んですることがある。この時の、少女はまさにそうだった。
しかし、もっと敷延すれば、彼女だけではない。陽子をはじめとする家族がその周辺の人たちまで含めた人間群像を動かす巨大な歯車が運命という動力に導かれて、誰も予期せぬ動きを見せ始めていたのである。ほぼ、全員がそれに絡め取られてしまうのだが、今のところ、それに気づく者はい なかった。
あくまで、不安に持っている人物は、約一名ほど、いたが。
もしかしたら、2名だったかもしれない。陽子の出生の秘密を知っている者は、誰と誰だろう?
「陽子ちゃん!?」
まるで他人事のように言う陽子。夏枝と春実から見るとあまりに現実感が欠けているように見える。 いわゆる素人芝居にありがちなぎこちない動きと台詞回しである。
「音楽の授業で合奏をやるのよ、それにはねえ、陽子はヴァイオリンの担当になったのよ、それなのに ――――」
「陽子!」
夏枝の耳には、合奏が合葬に聞こえた。それは春実も同じ思いだった。
「陽子ちゃん・・・・・・」
改めて見ると、己の罪が服を着て歩いている。しかし、どうしてこんな愛らしい罪があったものだと、変なところで感心させられる。
―――――自分たら、この非常時に!!
どんな過酷な状況下においても密かに冷静という名前の花を咲かせる春実である。何か言わねばならない。
陽子は、今の今まで見せていた動揺をあさっての世界に投げ捨てて、普段の自分を演じている。しかし、その演技はあまりに見え透いていて、ところどころにほころびが見いだせる。
すこしでも突っつけば、風船のように萎んでしまいそうだ。いや、単なる空気が入った風船なら大惨事になることはないが、水素100パーセントの上に失火となれば、もはや改めて描写する必要はないだろう。
大惨事である ――――それでもあえて言えというならば。
陽子は、このまま外出すれば、赤信号でも直進していまいそうに思えた。愛するわが子が凶暴な唸りを上げる車に飛ばされる。そんな残酷な映像が目の前に現出する。
「お、お願いだから、ここにいてちょうだい!! 陽子!!」
我が手を娘の制服に食い込ませて、懇願した。身体はまだランドセルを背負っていたころと変わらないために、余った衣服が夏枝の手を翻弄する。
――――この子は、まだこんなに小さいんだ! ルリ子とそう変わらない。
その観測は完全に誤っていたが、かえって、夏枝の陽子に対するあふれんばかりの愛情を暗示している。
春実は、陽子を押さえながら、思わず泣きたくなった。感情の起伏に乏しい陶器のような美貌にうっすらとこの時ばかりは感情を表す。
「陽子ちゃん、あのね ――」
完全に気が動転してしまった夏枝の代わりに、春実が説得に出ようとしたとき、けたたましいチャイムが鳴った。いや、長崎城主の豪邸だけに、その音はごく上品だ。しかしながらら、この時ばかりは カケスのわめき声に聞こえた。
カケスとはその鳴き声が激しいことから、かまびすしい人間を暗示する比喩によく使われる。
二人にとって、まさに呼び出し音はそれにしか聞こえなかったのである。
ところが、次に聞こえた声は耳に親しみすぎていた。
「陽子ちゃん、どうしたの? みんな待ってるんだよ!」
「え? 永和子!?」
春実は目を丸くした。思いも掛けない人物が来訪したからだ。言うまでもなく、彼女の長女である財前永和子、陽子とは長馴染みの親友である。いわゆる竹馬の友というやつである。
「永和ちゃん!?」
陽子の視線はまだ虚空を彷徨ったままだ。まるで目が見えないかのように見える。
空気を切り裂くような声は、玄関からかなり距離があるはずのこのリビングに直で響いてくる。
「あの子ったら ―――」
春実は頭を抱えた。親友の冷静を失った顔を見物するには、あまりに状況が危機に瀕している。
「永和ちゃんに入って貰いましょう ―――」
「おい、夏枝!」
「永和ちゃん、今行くよ!!」
そう、朗らかに宣言すると、夏枝と春実の押さえをすり抜けて玄関へと走り去ろうとした。
「あ、そうだ、ヴァイオリン忘れちゃった ――――ちょっと、待ってね」
陽子は、螺旋階段を回転しながら上昇していく。
「ああ、あの子どうしたのかしら?」
「あまりにショックな体験のために、一時的な記憶喪失になったのかしら」
春実の声は、全く興味もない科目の教科書を音読しているかのように抑揚がない。
「お春ちゃん、あなたは何時精神科医になったのよ」
「田丸礼子っていう精神科医と知り合いになったのよ、彼女が教えてくれたの。こんな仕事をしているとね ―――」
二人の精神も尋常ではないようだ。どうやら、非常事態に陥るとおしゃべりに興ずる。そのことで、理性を保とうとするのは、古今東西変わらない女性という生き物の性質だろうか。
春実は尋常でない精神を振り切るように玄関に向けて叫んだ。
「永和子、入ってきなさい!」
「え?ママ?!」
けたたましい足音を立てて入ってきた永和子の顔には、意外という文字が顔に書いてあった。
「永和子!」
「え? ママ!??」
見たこともない母親の顔に、驚く暇もなく身体を引き寄せられる。次の瞬間、耳を喰われるかと思った。
少女の耳に食い込んできたのは、母親の歯ではなく言葉だった。しかし、その言葉は、気を失うほどに衝撃的な内容を含んでいたのである。
「ママ、それ、本当!?」
「嘘で、こんなこと言えるわけないでしょう!? とにかく陽子を外に出すわけにはいかないの、今の あの子を外に出したら、トラックに飛び込みかねないわ」
―――お春ちゃん。
きょとんとした顔で、親友を見つめ続けながらも内面においては怪訝な思いを否定できずにいた。
―――この子の陽子の対する気持は、何なのだろう?
確かに、親友の娘という設定をはるかに超えている、春実の陽子に対する熱い視線は。それは不思議な愛情に満ちている。実の娘に対する情愛とは違う別のエキスが混入しているようだ。しかし、今は、そんなことを忖度していられない。
「永和子ちゃん、先生に電話して、陽子が具合悪くなったって伝えてね」
アールデコの受話器を指さす。自分なら、彼女を呼び捨てにはできない。それは、可愛いとは思うが。
気が付くと陽子がヴァイオリンを持って立ち尽くしていた。
「私、全然、具合悪くないよ ――」
「陽子ちゃん・・・・・」
強いて冷静を保っているのがわかる。それこそ号泣しながらソファーを破って、中の羽毛を部屋中に飛び散らせたいだろうに。
少女は、舌に黒鳥の舞を強制した。
「私を騙していたのね、永和ちゃんも知ってたんだ。それに町の人たちも」
「ええん、知らないよ、今、知ったんだよ」
教師との話は済んだのに受話器を持ったままの永和子は、慌てて弁解する。母親そっくりの瓜実顔の、上品な容姿だがその内面は、母親とは一線を画すようだ。危機を目の前にして、とうてい、冷静を保っていることができない。
どうやら、みんなに騙されていたことが我慢できなかったようだ。すると、そのことを彼女は悟っていたことになる。
「みんな・・・・・・・・それに、ルリ子さん、いや、お姉さんが可哀想・・・」
―――こんな時にルリ子のことを考えるなんて、貴女はほんとうに、私の娘よ!あの子のことをあからさまにしたら、ほんとうの母娘でないことまでが、明かになっちゃうと思うと!だから言えなかったの!
夏枝は言いたくても言えないことをわかりやすい方法に変換した。
それは ―――。
それは、―――。
涙である、いわゆるひとつの。
光るものを母親の双眸に見いだした陽子は、凍りついた。しかし、それはショートしかかった少女の心を冷やす役割を担うことになった。
この時、陽子は悟ったのである。
春実が言わんとしたことのほんとうの意味のことである。18歳になるまで知ってはいけない。その中身自体のことではない。
どういう理由が内包しているのか、わからないが、真実という黄身が詰まっている卵の殻を傷付けてはいけないらしい。もしも、そんなことをしたら、自分はおろか、自分のことを思ってくれている沢山の人々を傷付けるかもしれない。
根が素直な少女はそう理解した。
我を通すことを止めたのである。しかし、知ってしまった以上は、本来なら自分の姉がもうひとりいたということを否定することはできなかった。何としても墓参りをしたい。
それにしても、我が家に彼女が存在したという足跡がないということは、何ていう不自然さだろうか。仏壇はおろか、 写真の一枚もないのだ。それほどまでに自分に隠しておきたかったのだろうか。その理由は何か。
―――――もしかしたら、自分に聞かせたくないくらいに残酷な方法で殺されたのだろうか。それにしても、それを自分に報せないほどの方法って?
ソファに座らされ、改めて煎れられた紅茶をすすりながら思った。目の前にはレモンケーキが切り分けられ、甘酸っぱい匂いが漂ってくる。それに母の愛を感じながらも、鋭敏な少女の知性は、正解を求めて迷路の出口を捜していた。
そんな少女の思考を止めたのは春実の声だった。そこに笑顔が出現した。
「陽子ちゃん、食べ物の恨みは根が深いのよ、もしも、あなたたちが来なかったら、おばさんが独占できたのよ ―――」
「えー? おばさん、独占する気だったの?」
今度は不満そうに柔らかで品の良い頬を膨らませる。むくれた陽子だったが、すっかり、春実に籠絡されたことに気づいていない。やはり、鋭敏な知性を持ち、年齢よりも大人びた陽子とはいえ、ふつうの中学生の、それもランドセルから肩掛け鞄に変わったばかりの、少女にすぎないのだろう。
しかし、その年齢よりも幼い中学生が側にいた。陽子がしないような大きな口でレモンケーキを頬張っている少女だ。
「こら、永和子! もっと、遠慮して食べなさい! それに何であんたまで食べるのよ!」
半ば笑いを込めながら、春実は、娘を怒鳴りつけた。
それが契機になって、リビング中に温かい笑いが充満する。
この時間が永遠に続けばいいと、陽子は思った。しかし、その心の何処かにおいて、黒くも、鋭敏な知性が蠢き始めていたのである。
人間とはなんて迂遠な、いや、それだけでなく自虐的なのだろう。心とは時に、自分が傷つくことを望んですることがある。この時の、少女はまさにそうだった。
しかし、もっと敷延すれば、彼女だけではない。陽子をはじめとする家族がその周辺の人たちまで含めた人間群像を動かす巨大な歯車が運命という動力に導かれて、誰も予期せぬ動きを見せ始めていたのである。ほぼ、全員がそれに絡め取られてしまうのだが、今のところ、それに気づく者はい なかった。
あくまで、不安に持っている人物は、約一名ほど、いたが。
もしかしたら、2名だったかもしれない。陽子の出生の秘密を知っている者は、誰と誰だろう?
ふいに、あおいは、寝返りを打った。啓子はそれに喜びの感情を素直に表すべきだったのかもしれない。しかし、少女の心にはそれと全く違う感覚が芽吹き始めていたのである。どんなにふっくらとした容姿を持つ人間でも、顔に鋭角を備える場所がある。
一般に細面が美人の条件だと言われるが、たいてい、そのような人間は、その鋭角が鋭い。あおいもその例外ではない。首にブイの字を造る胸鎖乳突筋から顔につながるところ。即ち、顎である。 その部分から可愛らしい曲線を造る耳たぶに至るラインを見ていると、あるものが目の前にないことが悔やまれた。
スケッチブック。
そして、画材。
後者は、すぐに視線に入った。校医が使うテーブルの上に赤い鉛筆立てが見える。まだ、20代後半だと思われる人間には、珍しく、鉛筆をわざわざナイフで削っているようだ。削り後が目に親しく感じた。最近の彼女が毎日行っていることである。鉛筆の匂いが嗅覚を刺激する。
描きたい ―――。
描きたい ―――。
それは、ほぼ絵描きとして運命づけられた者にとって本能とでも言うべき衝動である。啓子は、親友が置かれた状態も忘れて、それを熱望した。
―――あった。
机と壁にスケッチブックが挟まっていたのである。それが誰の者かなどという思考は、少女の脳裏に走ることはなかった。ただ、描きたかった。震える手で鉛筆とそれをもぎ取ると、まん中辺りを開いた。
そして、しかる後に、黒鉛を紙の表面に走らせた。少女の身体が造る柔らかいラインがそこに再現される。まるで、身体を触れているような気分になる
――――デッサンは、目とともに手を使うんだ。触れるような気持でやりなさい。
一体、誰の声だろう。啓子は、親にせがんで絵の教室に通わせてもらっているが、そこではもとより、正当な美術教育に基づくデッサンなどは奨励していない。ただ、思ったことを自由に描かせることをモットーにしている。
―――――どうしてだろう知っているような気がする。
さきほどの声も、かつて知った絵画教室の教師の声ではない。時間と空間を超えた何処かから響いてくるような気がする。あえて例えるなら夢の中で師事したような気がする。先生の顔も仕草も憶えていないが、声だけは脳裏に刻み込まれている。
啓子は、現在、自分が何処にいるのかほとんど意識に登っていない。それだけ夢中になって右手を動かしているのだ。
そんなようすをたまたま戻ってきた校医が見かねて、注意しようと立ち止まった。その瞬間 ―――――。
二十代後半だと言う校医は、思わず言葉を失った。多少なりとも髭を蓄えているが、まるで明治期の男たちのように余計に威厳を備えようとしているのが、あからさまであり、その分よけいに若いというか幼く見えるのはどういうことだろう。
校医は、その髭に手をやって、ただ凍りついたように押し黙っている。少女を叱りつけるという当座の目的を忘れて立ち尽くしている。
あまりに、その絵が見事だったからである。
スケッチブックに描かれているものに視線を走らせると誰も息を呑むと思われた。とても小学生が描いているとは思えない。もののフォルムとムーブマンを見事なまでに捕らえた仕事はとても素人のそれには見えない。
実は、この校医は美術の心得があるのである。その証拠に高校は美術専門の過程だった。的確な人体デッサンには解剖学の知識が必須だが、それを勉強しているうちに、本格的に医学の勉強がしたくなって、その道へと進路を変更したという変わり種である。
―――あれ? この子の絵は何処か見た色を感じるな。あれはたしか ――――。い、い、何だっけ? この前、展覧会でやっていたはずだが・・・・・。もう歳かな? いやこの歳で、猪熊、井崎? 違うな、確か、東欧か何処かの人だったはずだ、日本に、帰化したはずだ・・・・・・。
校医は、どうしてもよく耳に親しんだはずのその名を思い出せなかった。その苛立ちを言葉で表現することで、解消しようとし た。
「ちょっと、君、ここで何をしているのかね?」
「あ」
―――あ、じゃないだろう?
そう校医は思いながら、かつての自分以上に凍りついた啓子からスケッチブックを奪い取った。
「こんなところにあったのか、捜してたんだ」
「すいません。先生の持ち物とは露知らず ―――」
悪びれずに答える啓子。一瞬だけが、年齢らしい童女の態度をかいま見せたが、すぐに普段の自分を取り戻した。
「授業はいいのか ―――先生は戻られたんだろう?」
気が付くと看護婦もいる。
啓子は、現在、自分が置かれている状況を思い直してみた。理由もわからず、倒れてしまったあおいを心配して、ここに来た。そして、看護室にいるはずの校医や看護婦がいないことに憤慨して ―――――。
何故か、担任は教室に戻ってしまったのかいなくなっていた。そのことに、意識が回らなかったのは、ご都合主義というやつだろうか。
しかし、授業中に、教室外に居を定めていることに不安にならないはずはない。
自分は何処にいて、何をして理右のだろう。
よく考えてみたら、担任は、あおいのことを見守っているように、言付けをしたはずだ。人間の記憶というものは都合がいいように変形されてしまうものだから、自分の出した結論に納得できない自分がいた。
だが、あおいのことを気遣うというのは最重要事項のはずだ。
そのはずの自分が絵を描いているなどと ―――――・
冷徹な仮面の中では、冷や汗ものになっていたのである。いったい、自分は何をしていたのだろう。
校医は、腕時計を見遣った。そろそろ四限が終わる。教室に戻ったはずの教師が戻ってくるかもしれない。啓子のスケッチブックを軽い手つきで取りあげながら、校医は言った。
「人の紙に勝手に描いた責任は取って貰わなくてな。それに先生へのご報告もね ――」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
しかし、その声色からまったく怒っていないことが見て取れた。
「だけど、この絵をプレゼントしてくれたら、見逃してもいいかな。それに、これからちょくちょくと絵を見せてくれたら嬉しいかも」
大の大人から友人のように扱われると、戸惑うものである。啓子もけっして例外ではなかったが、それを顕わにするほど子供じみているわけではなかった。あるいは、見防備ではなかった。
「そんな絵でよろしければ ――」
「じゃ、これは貰っておくよ」
本来、自分の所有物だったものを他人から譲与されたように、大袈裟な仕草で有り難がる。それを、心の奥に破裂しそうな風船を隠し持って、立ち上がった。そして、そそくさと保健室を後にしようとした。
校医は、そんな少女の背中に何事か掛けようと口を動かす。
「これはとてもよく描けているよ。君は本当にこの子のことが大事なんだね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
啓子は、ふり返り際に無言で校医を睨みつけた。それは当たり前のことを聞くなと言っているように見えた。
しかし、すぐに前を向くと学校の廊下に消えていった。遠近法に乗っ取った消失点に向かって、そして、まっすぐに白いリノリウムの床に、同化してしまった。
カラカラと床と上履きのゴムがぶつかり合う音を聞きながら、校医は、失念していたその名前を思いだした。
―――――そうだ、井上順だ。井上順先生。
彼が高校時代の恩師が師事した画家だった。そのために、少しは気になっていたのだ。展覧会が催されていたことは、記憶の何処かに引っかかっていた――――これがど忘れというやつだろうか。
スケッチブックを広げながら、そう思った。
―――親友か。
寝台に乗せられている少女は、まだ、その姿勢を保っていた。
―――たしかに彼女を描いているのだろうが。
何とも言えぬ違和感を禁じ得ない。それはなんだろう。小学生とは思えないほどにデッサンは正確なのだ。問題は、そのレベルの話ではない。
それが啓子の主観なのだろうが、どうしても画中の人物は年齢相応には見えないのだ。
特に顎の鋭角。
どうしても、それが校医の視力を吸収した。
そして、尖った鼻。
―――え? 全然、尖っていない。
それはデッサンがどうとかいう問題ではなかった。技術的に厳密に言えば、それは小学生の作品としてはずば抜けていても、しょせんは子供の仕事にすぎない。
一通りの美術教育を受けた校医がその絵から受け取ったメッセージはそんなレベルのことではないのだ。
印象。
そう言う単語で片づけるのは簡単だ。だが、そう言ってしまうには、あまりにも陳腐すぎた。詩人を気取っている校医は、それを風と名付けた。
――――何やら懐かしい風が吹いてくるな。
とたんに泣きたい気持になった。目頭が熱くなったところで、自分を取り戻した、背後から忍び寄ってくる看護婦の声もそれに荷担したのかもしれない。
「先生、どうなさったんですか ―――」
「いや、何でもない」
平静を保ちながらスケッチブックを閉じた。
それが閉じられるか閉じられないかという瞬間に、チャイムが鳴った。啓子は、何事もなく教室に入れたのかと軽く気になりながらも、渡された書類の山を処理し始める。学校という場所がらにもかかわらず、嘱託とはいえ、歴とした医師免許を持った医師がおり、その上、看護婦までもが揃っている。その恵まれた環境は、有名私立ならではのことだろうか。
モニター上に次々と数字やら文字列を打ち込んでいく。それは俗にカルテと呼ばれるものだが、そのようなものが学校に常備されている辺り、とても尋常とはいえない。
まるで指の筋肉尿酸を溜めるついてに言った感じで、キーボードを打ち込んでいると、看護婦が年齢に似合わない若い声をかけてきた。
「先生、ちゃんと身分証つけないと文句言われますよ」
「そうだな ―――」
校医は、縦6センチ、縦15センチの長方形に収まった藤沢省吾という文字を見つけて、今更ながらに、自分がそのような名前をしていたことを思いだした。それまで、別の感覚に支配されていたのである。
――――あのデッサンを見てからか、それともあの少女が担ぎ込まれてからか。
省吾の視線に刺激を受けたかのように、あおいは目を開けた。そして ――。
「あ、ウウ・・ウ」
少しばかり呻いたが、彼と視線が合うと、すこしばかり顔を赤らめて目をそらした。そして、起きるばかりか、寝台から降りようとする。
「ああ、もうすこしようすを見ようか。それとも家族の方を呼ぼうか、ええと ―――」
少女の名前を失念した省吾であったが、すぐに思いだした。
「榊、あおいさんだったね ――――」
「・・・・・・・・?」
どうして、あなたが知っているんですか?という顔で、少女は校医を見上げた。
省吾は、その言葉を呼吸のついでとしか見なしていなかった。あまりにも、突然に、脈絡もなく出現したのである。100年も解けない難問に挑む数学者が小休止に、お茶を入れようと気を抜いたときに、小悪魔から妖しげな数字を囁かれたときのように、彼はそれを簡単に解答だと受け取ってしまったのである。
だから、彼も何の注意もなく、その言葉がついで出た。
「ダンナさんによろしくね ―――?!」
「え?!」
あおいは、口を疑問符の形に歪めたが、それを言った本人こそ驚いていたのである。
それこそ気が変になったのかと、脳外科医の友人の顔が浮かんだほどだ。
一般に細面が美人の条件だと言われるが、たいてい、そのような人間は、その鋭角が鋭い。あおいもその例外ではない。首にブイの字を造る胸鎖乳突筋から顔につながるところ。即ち、顎である。 その部分から可愛らしい曲線を造る耳たぶに至るラインを見ていると、あるものが目の前にないことが悔やまれた。
スケッチブック。
そして、画材。
後者は、すぐに視線に入った。校医が使うテーブルの上に赤い鉛筆立てが見える。まだ、20代後半だと思われる人間には、珍しく、鉛筆をわざわざナイフで削っているようだ。削り後が目に親しく感じた。最近の彼女が毎日行っていることである。鉛筆の匂いが嗅覚を刺激する。
描きたい ―――。
描きたい ―――。
それは、ほぼ絵描きとして運命づけられた者にとって本能とでも言うべき衝動である。啓子は、親友が置かれた状態も忘れて、それを熱望した。
―――あった。
机と壁にスケッチブックが挟まっていたのである。それが誰の者かなどという思考は、少女の脳裏に走ることはなかった。ただ、描きたかった。震える手で鉛筆とそれをもぎ取ると、まん中辺りを開いた。
そして、しかる後に、黒鉛を紙の表面に走らせた。少女の身体が造る柔らかいラインがそこに再現される。まるで、身体を触れているような気分になる
――――デッサンは、目とともに手を使うんだ。触れるような気持でやりなさい。
一体、誰の声だろう。啓子は、親にせがんで絵の教室に通わせてもらっているが、そこではもとより、正当な美術教育に基づくデッサンなどは奨励していない。ただ、思ったことを自由に描かせることをモットーにしている。
―――――どうしてだろう知っているような気がする。
さきほどの声も、かつて知った絵画教室の教師の声ではない。時間と空間を超えた何処かから響いてくるような気がする。あえて例えるなら夢の中で師事したような気がする。先生の顔も仕草も憶えていないが、声だけは脳裏に刻み込まれている。
啓子は、現在、自分が何処にいるのかほとんど意識に登っていない。それだけ夢中になって右手を動かしているのだ。
そんなようすをたまたま戻ってきた校医が見かねて、注意しようと立ち止まった。その瞬間 ―――――。
二十代後半だと言う校医は、思わず言葉を失った。多少なりとも髭を蓄えているが、まるで明治期の男たちのように余計に威厳を備えようとしているのが、あからさまであり、その分よけいに若いというか幼く見えるのはどういうことだろう。
校医は、その髭に手をやって、ただ凍りついたように押し黙っている。少女を叱りつけるという当座の目的を忘れて立ち尽くしている。
あまりに、その絵が見事だったからである。
スケッチブックに描かれているものに視線を走らせると誰も息を呑むと思われた。とても小学生が描いているとは思えない。もののフォルムとムーブマンを見事なまでに捕らえた仕事はとても素人のそれには見えない。
実は、この校医は美術の心得があるのである。その証拠に高校は美術専門の過程だった。的確な人体デッサンには解剖学の知識が必須だが、それを勉強しているうちに、本格的に医学の勉強がしたくなって、その道へと進路を変更したという変わり種である。
―――あれ? この子の絵は何処か見た色を感じるな。あれはたしか ――――。い、い、何だっけ? この前、展覧会でやっていたはずだが・・・・・。もう歳かな? いやこの歳で、猪熊、井崎? 違うな、確か、東欧か何処かの人だったはずだ、日本に、帰化したはずだ・・・・・・。
校医は、どうしてもよく耳に親しんだはずのその名を思い出せなかった。その苛立ちを言葉で表現することで、解消しようとし た。
「ちょっと、君、ここで何をしているのかね?」
「あ」
―――あ、じゃないだろう?
そう校医は思いながら、かつての自分以上に凍りついた啓子からスケッチブックを奪い取った。
「こんなところにあったのか、捜してたんだ」
「すいません。先生の持ち物とは露知らず ―――」
悪びれずに答える啓子。一瞬だけが、年齢らしい童女の態度をかいま見せたが、すぐに普段の自分を取り戻した。
「授業はいいのか ―――先生は戻られたんだろう?」
気が付くと看護婦もいる。
啓子は、現在、自分が置かれている状況を思い直してみた。理由もわからず、倒れてしまったあおいを心配して、ここに来た。そして、看護室にいるはずの校医や看護婦がいないことに憤慨して ―――――。
何故か、担任は教室に戻ってしまったのかいなくなっていた。そのことに、意識が回らなかったのは、ご都合主義というやつだろうか。
しかし、授業中に、教室外に居を定めていることに不安にならないはずはない。
自分は何処にいて、何をして理右のだろう。
よく考えてみたら、担任は、あおいのことを見守っているように、言付けをしたはずだ。人間の記憶というものは都合がいいように変形されてしまうものだから、自分の出した結論に納得できない自分がいた。
だが、あおいのことを気遣うというのは最重要事項のはずだ。
そのはずの自分が絵を描いているなどと ―――――・
冷徹な仮面の中では、冷や汗ものになっていたのである。いったい、自分は何をしていたのだろう。
校医は、腕時計を見遣った。そろそろ四限が終わる。教室に戻ったはずの教師が戻ってくるかもしれない。啓子のスケッチブックを軽い手つきで取りあげながら、校医は言った。
「人の紙に勝手に描いた責任は取って貰わなくてな。それに先生へのご報告もね ――」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
しかし、その声色からまったく怒っていないことが見て取れた。
「だけど、この絵をプレゼントしてくれたら、見逃してもいいかな。それに、これからちょくちょくと絵を見せてくれたら嬉しいかも」
大の大人から友人のように扱われると、戸惑うものである。啓子もけっして例外ではなかったが、それを顕わにするほど子供じみているわけではなかった。あるいは、見防備ではなかった。
「そんな絵でよろしければ ――」
「じゃ、これは貰っておくよ」
本来、自分の所有物だったものを他人から譲与されたように、大袈裟な仕草で有り難がる。それを、心の奥に破裂しそうな風船を隠し持って、立ち上がった。そして、そそくさと保健室を後にしようとした。
校医は、そんな少女の背中に何事か掛けようと口を動かす。
「これはとてもよく描けているよ。君は本当にこの子のことが大事なんだね」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
啓子は、ふり返り際に無言で校医を睨みつけた。それは当たり前のことを聞くなと言っているように見えた。
しかし、すぐに前を向くと学校の廊下に消えていった。遠近法に乗っ取った消失点に向かって、そして、まっすぐに白いリノリウムの床に、同化してしまった。
カラカラと床と上履きのゴムがぶつかり合う音を聞きながら、校医は、失念していたその名前を思いだした。
―――――そうだ、井上順だ。井上順先生。
彼が高校時代の恩師が師事した画家だった。そのために、少しは気になっていたのだ。展覧会が催されていたことは、記憶の何処かに引っかかっていた――――これがど忘れというやつだろうか。
スケッチブックを広げながら、そう思った。
―――親友か。
寝台に乗せられている少女は、まだ、その姿勢を保っていた。
―――たしかに彼女を描いているのだろうが。
何とも言えぬ違和感を禁じ得ない。それはなんだろう。小学生とは思えないほどにデッサンは正確なのだ。問題は、そのレベルの話ではない。
それが啓子の主観なのだろうが、どうしても画中の人物は年齢相応には見えないのだ。
特に顎の鋭角。
どうしても、それが校医の視力を吸収した。
そして、尖った鼻。
―――え? 全然、尖っていない。
それはデッサンがどうとかいう問題ではなかった。技術的に厳密に言えば、それは小学生の作品としてはずば抜けていても、しょせんは子供の仕事にすぎない。
一通りの美術教育を受けた校医がその絵から受け取ったメッセージはそんなレベルのことではないのだ。
印象。
そう言う単語で片づけるのは簡単だ。だが、そう言ってしまうには、あまりにも陳腐すぎた。詩人を気取っている校医は、それを風と名付けた。
――――何やら懐かしい風が吹いてくるな。
とたんに泣きたい気持になった。目頭が熱くなったところで、自分を取り戻した、背後から忍び寄ってくる看護婦の声もそれに荷担したのかもしれない。
「先生、どうなさったんですか ―――」
「いや、何でもない」
平静を保ちながらスケッチブックを閉じた。
それが閉じられるか閉じられないかという瞬間に、チャイムが鳴った。啓子は、何事もなく教室に入れたのかと軽く気になりながらも、渡された書類の山を処理し始める。学校という場所がらにもかかわらず、嘱託とはいえ、歴とした医師免許を持った医師がおり、その上、看護婦までもが揃っている。その恵まれた環境は、有名私立ならではのことだろうか。
モニター上に次々と数字やら文字列を打ち込んでいく。それは俗にカルテと呼ばれるものだが、そのようなものが学校に常備されている辺り、とても尋常とはいえない。
まるで指の筋肉尿酸を溜めるついてに言った感じで、キーボードを打ち込んでいると、看護婦が年齢に似合わない若い声をかけてきた。
「先生、ちゃんと身分証つけないと文句言われますよ」
「そうだな ―――」
校医は、縦6センチ、縦15センチの長方形に収まった藤沢省吾という文字を見つけて、今更ながらに、自分がそのような名前をしていたことを思いだした。それまで、別の感覚に支配されていたのである。
――――あのデッサンを見てからか、それともあの少女が担ぎ込まれてからか。
省吾の視線に刺激を受けたかのように、あおいは目を開けた。そして ――。
「あ、ウウ・・ウ」
少しばかり呻いたが、彼と視線が合うと、すこしばかり顔を赤らめて目をそらした。そして、起きるばかりか、寝台から降りようとする。
「ああ、もうすこしようすを見ようか。それとも家族の方を呼ぼうか、ええと ―――」
少女の名前を失念した省吾であったが、すぐに思いだした。
「榊、あおいさんだったね ――――」
「・・・・・・・・?」
どうして、あなたが知っているんですか?という顔で、少女は校医を見上げた。
省吾は、その言葉を呼吸のついでとしか見なしていなかった。あまりにも、突然に、脈絡もなく出現したのである。100年も解けない難問に挑む数学者が小休止に、お茶を入れようと気を抜いたときに、小悪魔から妖しげな数字を囁かれたときのように、彼はそれを簡単に解答だと受け取ってしまったのである。
だから、彼も何の注意もなく、その言葉がついで出た。
「ダンナさんによろしくね ―――?!」
「え?!」
あおいは、口を疑問符の形に歪めたが、それを言った本人こそ驚いていたのである。
それこそ気が変になったのかと、脳外科医の友人の顔が浮かんだほどだ。
鈴木ゆららが見つめている闇は確かに深かったが、それ以上の暗がりに沈んでいたのは、由加里のふたつの大きな眼(まなこ)だった。
虚ろな目は何を見ているのかわからない。双眸は、完全に見引かれているというのに、全く光を反射しない。その奥にはブラックホールが隠されているのだろうか。
黒い、何処までも黒が続く、闇の中の闇。
それは何でも吸収する挙げ句、光さえ溜め込んでしまうというから、どんなに高性能な天体望遠鏡を夜空に向けても、確認できないらしい。すると、由加里の黒曜石も闇の中に埋もれてしまった可能性がある ―――否、闇そのものに変わり果ててしまったのかもしれない。
――――あらゆる光を吸い取ったあげくに。
さて、視線をすこしばかり下に向けてみよう。目は口ほどにものを言うとあるが、目に、それを求められないとすれば、弟にあたる口に要求するのが筋というものだろう。
驚くべき事に、少女の口には黒いスリッパが埋め込まれているではないが、おまけに、口の端には涎が糸を引いている。小刻みに震えるたびに、その量は増えていく。オーケストラ演奏前に、楽器のチューニングが行われるが、それを彷彿とさせるような音が、少女の口から漏れ続けている。
黒い布の塊は、心なしか揺れている。しかも、同時にチャラチャラという金属どうしが合わさる音が、病室に木霊する。まったく、関係がないように思える両者は、少女があしらっているリボンと手のように、見えない関連性で結びつけられているように見えた。
美少女の顔半分に突き立てられたスリッパが揺れているのを見ていると、女は、満足そうに笑った。
彼女は天頂にいる。
「由加里ちゃん、おめでとう、ふふふ」
「・・・・・・・・・」
じわじわと言葉が降ってくる。火山灰に埋もれていく死んだ馬のように、少女は無言のまま身体を呑みこまれていく。
女は、スリッパを揺らしているのが自分だと認識しているのだろうか。まさに、火山灰とは彼女のことである。
似鳥可南子、その人である。
この病院の看護婦である可南子は、着衣のまま、少女の背中にのし上がっている。それはゴリラのマウントを思い起こさせる。動物専用のテレビなどで視たことがあるかもしれないが、ゴリラがゴリラを強姦するようにのし上がっている姿である。あれは、下位の者に対して、自分が上位であることを認識させる行為と聞くが、可南子のばあいはどうなのだろう。同性愛とは、しょせん、ゴリラの習性と変わらないのだろうか。
「ふ、ふ、ふ・・・・・いいわよ、由加里ちゃん・・・・アハッハア、あなたは私のもの」
物言わぬ類人猿とはいえ、もっと、上品な声を出しそうなものである。それが、この看護婦が出す人語らしき音は、ゴキブリが吐き出す体液よりもおぞましかった。
今、女の涎が少女の背中の窪みに落ちた。その付近には、彼女のマニキュアが残酷に鈍い光を放っている。それは高級品なのだが、彼女が使うとただ趣味の悪さを露呈するだけである。使いどころを間違えると、一流の品も形無しになってしまうものである。
由加里は、それを見ることができない。もっとも、視界に入っていたとしても、視神経が麻痺してしまった今となっては、それを認識することはできないだろう。コンピュータが処理能力を超える情報量を流されるとショートしてしまうように、少女の神経は、膨大な感情の処理をまかなうことができずに、凍りついてしまったのである。
可南子の行為は、由加里を完全に麻痺させてしまった。もしも、死という概念が意識の喪失と同義ならば、一時的に、少女を殺してしまったとも言えるかもしれない。しかし、彼女が蘇ることはあるのだろうか。かつて、少女たちの中心となって咲いていた大輪の花が、その春を取り戻すことはあるのだろうか。
由加里が息を吹き返したのは、突然のことだった。
まるで、駅に設置された場違いなシュールレアリズム彫刻のように、顔面に突き立てられたスリッパがぴょいっと顔を出したとき、可南子は、少女の心臓の鼓動が戻ったことを知って、頼もしく思った。 怖ろしいことだが、この女は、自分がいかなる罪を犯しているのか、その自覚がまったくないのである。
天頂から少女を見下ろすことが、どれほど、悪魔の所業に属するのか、完全に思考の分類能力を欠いているのである。それでは、患者を切り分けるメスを仕分けできない外科医と同じだ。そんな医者に手術される患者はたまったものではない、
だから、精神が破綻したこの女が14歳の少女に行っていることは、完全に常軌を失っていた。
可南子は、重傷を負っている少女から処女を奪うという暴挙にでたのである。
換言すると・・・・・・・。
こともあろうに、右大腿骨をふくめた、全身の数カ所に傷を負った少女を身動きできないように、手錠で縛り付けた上に、性器を顕わにして、自らに装着した双頭のペニスの一方をそこに埋め込んだのである。
そして、その行為は続いている。
可南子は、さらに罪の上塗りをしようとしていた。
「ふぁう、ふぁう・・・ぐぁぁあ!?」
「むぐあう!?!」
少女の口から人語が飛び出ることを危惧したのか、看護婦は濡れそぼったスリッパをひょいっと手に取ると、しかるのちに、再び、少女の口に突っ込んだのである。
また、オーケストラの前演奏が始まった。今度は、さきほどよりもさらに激しい音が飛び出る。楽器が壊れてしまうのではないかと思わせるほどに、激しい。しかしながら、楽器とは使い古されたスリッパにすぎないのだから、可南子をメランコリックにさせる原因にはならない。
少女は、飢え死に寸前の齧歯類がチーズの塊に噛みつくように、スリッパに歯を食い込ませている。そんなことでは、ナイロンの生地を食い破れるはずはないのに、わかっていてもそうしなければ、何者かにたいして申し訳が立たないかのように、ぎりぎりと食い込ませる。
誰かとは?
それは、母親を筆頭にした家族に対してだろうか、それとも、自分自身のプライドにであろうか。
全身を貫く激痛と官能が混ぜ合わさった異様な感覚は、複雑な感情を相まって、ピークを迎えようとしていた。
可南子は、悪魔のような笑いを浮かべると、ジェットコースターの最上位を目指すべく、腰の筋肉に グリコーゲンを注入しはじめた。
その時、頭が悪いくせに老獪な看護婦は、とある呪文を少女に仕込んでおくことを忘れなかった。 それは、少女が激情に駆られないようにするための予防措置である。
「これは、将来、大事なひとのためにする準備運動のようなものよ・・・・ふふ、可愛いわよ、由加里ちゃん、まだお子様のあなたにはこの程度で十分かしら?」
まったく、理屈が成っていない。荒唐無稽というにも、論理のすり替えがひどすぎる。しかし、被害者である少女は、それを素直に受け取っていた。感情と感覚が、臨界点を超えて、無意識に可南子のとんでもない論理が染み込んでいったのかもしれない。
ちょうどそのころ、奇妙な編制を為す四人は、夜のドライブを終わろうとしていた。慣れない運動に身をやつした鈴木ゆららは、こんこんと眠りの世界に身を投じており、一方、照美とはるかも、かなりぐったりとしたようすで、移りゆく夜の街を車窓からただ眺めていた。
夜の街は雨に打たれている。それが、疲労の蓄積による視力の低下と劣化に相まって、セザンヌばりの印象画に仕上げている。
はるかは、自分が書き上げた絵に見とれて、うとうとしていたが、やがて、それが180度ほど別の展開を見せることなど予想だにしなかったにちがいない。
それは突然やってきた。夜の闇を引き裂くような言葉が、はるかを襲ったのである。
どのような言葉と言葉のつながりがあったのか、よく憶えていない。睡眠への導入部でまどろんでいたこともあり、意識は混沌としていた。しかし、あゆみと照美が何やら会話を交わしていたことは知っていた。
その時、あゆみは恐るべき事を言ったのである。
しかし、耳というものは、選択して音を拾っているのは、このことは、その確かなる証左だった。
「ねえ、照美さん、プロテニスプレイヤーを目指してみない?」
その瞬間、天と地が入れ代わったように思えた。その証拠に、雨が地面から空に降り注いでいる。 ここがあゆみが運転する車内であることも忘れてしまった。
「・・・・・・・・・!?」
言葉を完全に失い、というよりも、最初からまったく得ていなかったのだが、はるかは、ただ、呆然と恩師の頭髪を見つめ続けることしかできなくなっていた。
照美は、あゆみの言葉を単なる冗談か、社交辞令ていどにしか受け取っていないようすで、軽く受け流している。
「そんなに、私って才能ありますか? ふふ ―――」
微笑という香料を言葉に混ぜながらの発言なのだから、まじめに受け取っていないことは事実であろう。しかし、はるかはそうではなかった。まるで自らが立っている地面を奪われたような心持ちで、敢然と抗議しはじめた。
「あ、あゆみさん、何を考えておられるんですか?」
自分では抗議のつもりなのだろうか、ほとんど、自失呆然の果てに、ほとばしった呻きにしか聞こえない。
「はるか、何を躍起になっているのよ ―――」
照美は、意外な顔をした。普段、冷静沈着なこの親友が感情を顕わにするなと、とても珍しいことだったからだ。
しかし、彼女にしてみれば、死活問題なのである。それは、そもそも対して興味のない勉強や、多少なりともコンプレクスを持ち合わせているが、精神の根本に関係のない容姿において負けても、テニスを含めた運動分野で、照美に負けるなどということはあってはならないのである。
たがが、遊びていどの心持ちで行ったテニスを、あのあゆみに評価されるなどということは、ほとんど負けに等しい。
今更ながら、照美にそのような感情を持っていることに、気づいたはるかだった。彼女を構成する別の人格が、意識の主流を占めたときはじめて、いささか恥じ入るような気持になった。
そのために何も言えなくなってしまったのである。背後の席を陣取っている照美を妖しと思いながらも、フロントガラスの向こうに対戦選手がいるかのように睨みつけるのだった。
しかし、切り返しの早い彼女のこと、その双眸にはべつの光が宿っていた。テニスにおいても同じ事で、いったん犯してしまったミスをいつまでも引きずっていては、勝てる試合も負けてしまう。すぐに次の手を考えなくては・・・・・・・。
サイドミラーに沈む照美の美貌を見ているとはるかの頭の中は、西宮由加里のことに向いていた。 彼女をいじめるにあたって、照美ほどリーダーシップを獲っているわけではないが、その実、背後で励んでいるのは彼女だった。成年漫画をトレースペーパーで書き写させることを皮切りに、挙げ句の果ては、官能小説を彼女じしんの手によって、執筆させるまでに発展していた。
それは文芸関係においては、プロデューサーの役割なのだろうが、じしん気づかない才能に目覚めているようだ。
もうひとつ気づかないことがある。
それは、由加里をいじめるに当たって、照美以上の残酷さを発揮していることだった。
あまりに沈思黙考しているために、携帯の呼び出し音にすら気づかない。
「おい、あゆみ、携帯鳴ってるって ――――」
あゆみに指摘されてはじめて気づいたはるかだった。不意をつかれた形になったが、青い液晶画面を見ると、ほくそ笑んだ。
高島ミチル。
その人名が意味することを思うと、新たなる計略が自身気づかない才能に火がつくのだった。
虚ろな目は何を見ているのかわからない。双眸は、完全に見引かれているというのに、全く光を反射しない。その奥にはブラックホールが隠されているのだろうか。
黒い、何処までも黒が続く、闇の中の闇。
それは何でも吸収する挙げ句、光さえ溜め込んでしまうというから、どんなに高性能な天体望遠鏡を夜空に向けても、確認できないらしい。すると、由加里の黒曜石も闇の中に埋もれてしまった可能性がある ―――否、闇そのものに変わり果ててしまったのかもしれない。
――――あらゆる光を吸い取ったあげくに。
さて、視線をすこしばかり下に向けてみよう。目は口ほどにものを言うとあるが、目に、それを求められないとすれば、弟にあたる口に要求するのが筋というものだろう。
驚くべき事に、少女の口には黒いスリッパが埋め込まれているではないが、おまけに、口の端には涎が糸を引いている。小刻みに震えるたびに、その量は増えていく。オーケストラ演奏前に、楽器のチューニングが行われるが、それを彷彿とさせるような音が、少女の口から漏れ続けている。
黒い布の塊は、心なしか揺れている。しかも、同時にチャラチャラという金属どうしが合わさる音が、病室に木霊する。まったく、関係がないように思える両者は、少女があしらっているリボンと手のように、見えない関連性で結びつけられているように見えた。
美少女の顔半分に突き立てられたスリッパが揺れているのを見ていると、女は、満足そうに笑った。
彼女は天頂にいる。
「由加里ちゃん、おめでとう、ふふふ」
「・・・・・・・・・」
じわじわと言葉が降ってくる。火山灰に埋もれていく死んだ馬のように、少女は無言のまま身体を呑みこまれていく。
女は、スリッパを揺らしているのが自分だと認識しているのだろうか。まさに、火山灰とは彼女のことである。
似鳥可南子、その人である。
この病院の看護婦である可南子は、着衣のまま、少女の背中にのし上がっている。それはゴリラのマウントを思い起こさせる。動物専用のテレビなどで視たことがあるかもしれないが、ゴリラがゴリラを強姦するようにのし上がっている姿である。あれは、下位の者に対して、自分が上位であることを認識させる行為と聞くが、可南子のばあいはどうなのだろう。同性愛とは、しょせん、ゴリラの習性と変わらないのだろうか。
「ふ、ふ、ふ・・・・・いいわよ、由加里ちゃん・・・・アハッハア、あなたは私のもの」
物言わぬ類人猿とはいえ、もっと、上品な声を出しそうなものである。それが、この看護婦が出す人語らしき音は、ゴキブリが吐き出す体液よりもおぞましかった。
今、女の涎が少女の背中の窪みに落ちた。その付近には、彼女のマニキュアが残酷に鈍い光を放っている。それは高級品なのだが、彼女が使うとただ趣味の悪さを露呈するだけである。使いどころを間違えると、一流の品も形無しになってしまうものである。
由加里は、それを見ることができない。もっとも、視界に入っていたとしても、視神経が麻痺してしまった今となっては、それを認識することはできないだろう。コンピュータが処理能力を超える情報量を流されるとショートしてしまうように、少女の神経は、膨大な感情の処理をまかなうことができずに、凍りついてしまったのである。
可南子の行為は、由加里を完全に麻痺させてしまった。もしも、死という概念が意識の喪失と同義ならば、一時的に、少女を殺してしまったとも言えるかもしれない。しかし、彼女が蘇ることはあるのだろうか。かつて、少女たちの中心となって咲いていた大輪の花が、その春を取り戻すことはあるのだろうか。
由加里が息を吹き返したのは、突然のことだった。
まるで、駅に設置された場違いなシュールレアリズム彫刻のように、顔面に突き立てられたスリッパがぴょいっと顔を出したとき、可南子は、少女の心臓の鼓動が戻ったことを知って、頼もしく思った。 怖ろしいことだが、この女は、自分がいかなる罪を犯しているのか、その自覚がまったくないのである。
天頂から少女を見下ろすことが、どれほど、悪魔の所業に属するのか、完全に思考の分類能力を欠いているのである。それでは、患者を切り分けるメスを仕分けできない外科医と同じだ。そんな医者に手術される患者はたまったものではない、
だから、精神が破綻したこの女が14歳の少女に行っていることは、完全に常軌を失っていた。
可南子は、重傷を負っている少女から処女を奪うという暴挙にでたのである。
換言すると・・・・・・・。
こともあろうに、右大腿骨をふくめた、全身の数カ所に傷を負った少女を身動きできないように、手錠で縛り付けた上に、性器を顕わにして、自らに装着した双頭のペニスの一方をそこに埋め込んだのである。
そして、その行為は続いている。
可南子は、さらに罪の上塗りをしようとしていた。
「ふぁう、ふぁう・・・ぐぁぁあ!?」
「むぐあう!?!」
少女の口から人語が飛び出ることを危惧したのか、看護婦は濡れそぼったスリッパをひょいっと手に取ると、しかるのちに、再び、少女の口に突っ込んだのである。
また、オーケストラの前演奏が始まった。今度は、さきほどよりもさらに激しい音が飛び出る。楽器が壊れてしまうのではないかと思わせるほどに、激しい。しかしながら、楽器とは使い古されたスリッパにすぎないのだから、可南子をメランコリックにさせる原因にはならない。
少女は、飢え死に寸前の齧歯類がチーズの塊に噛みつくように、スリッパに歯を食い込ませている。そんなことでは、ナイロンの生地を食い破れるはずはないのに、わかっていてもそうしなければ、何者かにたいして申し訳が立たないかのように、ぎりぎりと食い込ませる。
誰かとは?
それは、母親を筆頭にした家族に対してだろうか、それとも、自分自身のプライドにであろうか。
全身を貫く激痛と官能が混ぜ合わさった異様な感覚は、複雑な感情を相まって、ピークを迎えようとしていた。
可南子は、悪魔のような笑いを浮かべると、ジェットコースターの最上位を目指すべく、腰の筋肉に グリコーゲンを注入しはじめた。
その時、頭が悪いくせに老獪な看護婦は、とある呪文を少女に仕込んでおくことを忘れなかった。 それは、少女が激情に駆られないようにするための予防措置である。
「これは、将来、大事なひとのためにする準備運動のようなものよ・・・・ふふ、可愛いわよ、由加里ちゃん、まだお子様のあなたにはこの程度で十分かしら?」
まったく、理屈が成っていない。荒唐無稽というにも、論理のすり替えがひどすぎる。しかし、被害者である少女は、それを素直に受け取っていた。感情と感覚が、臨界点を超えて、無意識に可南子のとんでもない論理が染み込んでいったのかもしれない。
ちょうどそのころ、奇妙な編制を為す四人は、夜のドライブを終わろうとしていた。慣れない運動に身をやつした鈴木ゆららは、こんこんと眠りの世界に身を投じており、一方、照美とはるかも、かなりぐったりとしたようすで、移りゆく夜の街を車窓からただ眺めていた。
夜の街は雨に打たれている。それが、疲労の蓄積による視力の低下と劣化に相まって、セザンヌばりの印象画に仕上げている。
はるかは、自分が書き上げた絵に見とれて、うとうとしていたが、やがて、それが180度ほど別の展開を見せることなど予想だにしなかったにちがいない。
それは突然やってきた。夜の闇を引き裂くような言葉が、はるかを襲ったのである。
どのような言葉と言葉のつながりがあったのか、よく憶えていない。睡眠への導入部でまどろんでいたこともあり、意識は混沌としていた。しかし、あゆみと照美が何やら会話を交わしていたことは知っていた。
その時、あゆみは恐るべき事を言ったのである。
しかし、耳というものは、選択して音を拾っているのは、このことは、その確かなる証左だった。
「ねえ、照美さん、プロテニスプレイヤーを目指してみない?」
その瞬間、天と地が入れ代わったように思えた。その証拠に、雨が地面から空に降り注いでいる。 ここがあゆみが運転する車内であることも忘れてしまった。
「・・・・・・・・・!?」
言葉を完全に失い、というよりも、最初からまったく得ていなかったのだが、はるかは、ただ、呆然と恩師の頭髪を見つめ続けることしかできなくなっていた。
照美は、あゆみの言葉を単なる冗談か、社交辞令ていどにしか受け取っていないようすで、軽く受け流している。
「そんなに、私って才能ありますか? ふふ ―――」
微笑という香料を言葉に混ぜながらの発言なのだから、まじめに受け取っていないことは事実であろう。しかし、はるかはそうではなかった。まるで自らが立っている地面を奪われたような心持ちで、敢然と抗議しはじめた。
「あ、あゆみさん、何を考えておられるんですか?」
自分では抗議のつもりなのだろうか、ほとんど、自失呆然の果てに、ほとばしった呻きにしか聞こえない。
「はるか、何を躍起になっているのよ ―――」
照美は、意外な顔をした。普段、冷静沈着なこの親友が感情を顕わにするなと、とても珍しいことだったからだ。
しかし、彼女にしてみれば、死活問題なのである。それは、そもそも対して興味のない勉強や、多少なりともコンプレクスを持ち合わせているが、精神の根本に関係のない容姿において負けても、テニスを含めた運動分野で、照美に負けるなどということはあってはならないのである。
たがが、遊びていどの心持ちで行ったテニスを、あのあゆみに評価されるなどということは、ほとんど負けに等しい。
今更ながら、照美にそのような感情を持っていることに、気づいたはるかだった。彼女を構成する別の人格が、意識の主流を占めたときはじめて、いささか恥じ入るような気持になった。
そのために何も言えなくなってしまったのである。背後の席を陣取っている照美を妖しと思いながらも、フロントガラスの向こうに対戦選手がいるかのように睨みつけるのだった。
しかし、切り返しの早い彼女のこと、その双眸にはべつの光が宿っていた。テニスにおいても同じ事で、いったん犯してしまったミスをいつまでも引きずっていては、勝てる試合も負けてしまう。すぐに次の手を考えなくては・・・・・・・。
サイドミラーに沈む照美の美貌を見ているとはるかの頭の中は、西宮由加里のことに向いていた。 彼女をいじめるにあたって、照美ほどリーダーシップを獲っているわけではないが、その実、背後で励んでいるのは彼女だった。成年漫画をトレースペーパーで書き写させることを皮切りに、挙げ句の果ては、官能小説を彼女じしんの手によって、執筆させるまでに発展していた。
それは文芸関係においては、プロデューサーの役割なのだろうが、じしん気づかない才能に目覚めているようだ。
もうひとつ気づかないことがある。
それは、由加里をいじめるに当たって、照美以上の残酷さを発揮していることだった。
あまりに沈思黙考しているために、携帯の呼び出し音にすら気づかない。
「おい、あゆみ、携帯鳴ってるって ――――」
あゆみに指摘されてはじめて気づいたはるかだった。不意をつかれた形になったが、青い液晶画面を見ると、ほくそ笑んだ。
高島ミチル。
その人名が意味することを思うと、新たなる計略が自身気づかない才能に火がつくのだった。
家族を見送り終わった夏枝はしばらく空を見ていた。蒼天という言葉はこのためにあるのだと思わせるくらいに、透けるような青空が広がっている。
――――これから、ずっとこうだといいわ。
自分に言い聞かせるように、空に視線を遣ると、人の背の二倍くらいはある板チョコのようなドアを閉めた。
玄関を入ると客人は正面にある絵画に魂を奪われることになる。キュビズムと言うべきか、それともシュールレアリズムなのか、大抵の客人は評価に苦心することになる。
長崎城主の邸宅ともなれば、客人の数は、普通の家の倍増しとなる。彼らは、この絵をどう批評しようかと頭を悩ませる。
ところが、彼らは総じて同じ感想を持つ。
それは、この絵が醸し出している圧倒的な幸福感である。
同時に、女主人の笑顔を見ると救われるような気分になる。同時に、彼女の娘がいたとすれば、それは完全なものになるだろう。ちなみに、彼女は絵の制作者である。もっとも、その年代はほぼ10年前という断りがつくのである。
言うまでもなく次女である陽子が描いた幼児画である。両親と姉である薫子が楽しげに並んだその絵は、ひとつの幸せな家庭を余すところなく表現しきっている。誰しも、その絵がこの家庭のフラクタル図形になっていることを思い知る。言い換えれば幸福の雛形になっているということになろうか。
当の陽子は恥ずかしがるのだが、夏枝は来客の度に、それを紹介するのだった。あたかも、自分の家の幸福を喧伝するように。
玄関から90度曲がって、回廊が続く。その設計は、あたかも、この絵が飾られるために為されたかのようだ。
この邸宅は陽子がこの世に生を受ける以前から建っているのだから、当時の建築家がそれを予見していたとしか思えない。
それほどまでに、この絵は建物に溶け込んでいたのである。ほぼ同一化していると言っていい。
「・・・・・・・・」
夏枝は、意味ありげに微笑を浮かべると履き物を脱ぐ。良家の子女らしく、優雅な手つきでそれを整えて置いた。
鈍く光る皮は、彼女の複雑な心理をぼんやりながらも描写しているようで、気持ち悪くなって思わず目を背けた。あたかも、罪を犯したばかりの人間が鏡で自分の顔を仰ぐようなそんなイメージである。
――――別に、私は犯罪者じゃないのに ・・・・・・・・・そうだ、今日は電話が。
その時、ルルルルルという電話の呼び出し音が響いてきた。まるで、彼女の心理を読み取ったようなタイミング。まさに、その相手らしいと受話器を取りもしないのに、勝手に相手を決めつけていた。
はたして ――――。
「春実でしょう?」
「え? 夏枝? またわかちゃった?」
「またまた、人を超能力者みたいに ―――」
夏枝は、さきほど流行のSFアニメを思い浮かべた。陽子から又聞きしたのだ。学校でも流行になっているらしい。
「夏枝のエスパー能力は廃れないようね。昔は、おにぎりの中身を当てたりとか ――」
「偶然だってば ―――」
普段は見せない笑顔をこのときとばかりに発揮する。もっとも、今、彼女以外に、この広い邸宅にいるのは猫の、ピエトロだけなのだが・・・・・・・・。優しい母親の姿しかしらない陽子にとってみれば、こんな彼女の姿は意外かもしれないが、けっして、単なる良家の子女に、その性格は留まらないのである。
普段は、誰もいないとはいえ、簡単に油断した顔などを晒すようなマネはしない。愛娘の絵が視線に入ると、すこしばかり表情を整えて口を開いた。
「今頃、あなたから電話があることは、わかっているのよ。毎年のことだし ――――」
「そうだね。薫子ちゃんはどうなの」
「あの子なら、定期的に行っているみたいだし ――――それに」
「あまり大がかりにやると、ばれちゃうか ――――」
「お春ちゃん?!」
夏枝は、声に感情を込めた。怒りを親友に対して表すとき、決まってこの幼名とでも言うべき呼び方をする。別に、彼女が嫌がるという理由でもなさそうだが、その由来は、本人でもわからない。
「電話じゃ、詳しく話せることじゃないけど、さ、いつか ――――だよ。あの子、あなてに似て、見かけによらず勘が鋭いからさ」
「うん ――そうだけど」
心配げに、再び絵に視線を戻る。それを止まらせたのは、親友の次のような台詞だった。
「これから、あなたの家に行っていい?」
「春実?!」
何故か、親友に今の自分を見せたくなかった。しかし、別に断る理由も見あたらないので ――。
「わかったわ。だけど仕事は? 今、何処にいるの?」
「諫早駅前の喫茶店。車で五分ってところかな。大丈夫よ、それでいつも子連れてくるの?」
「夏枝、未だに子もないじゃない? 少なくとも、私の夫なのよ、ははは。」
当時としては大変珍しいできちゃった婚だった。そんな言葉すらなかった時代のことだ。それに、春実は、夏枝に劣らず良家の子女なのである。城下町は噂でかまびすしかったが、そんなものにへこたれる春実ではなかった。
ちなみに、その時に産まれた娘の永和子は陽子の親友である。
「じゃあ、切るね ―――」
夏枝は、アールデコ的な意匠に彩られた受話器を置くと、しばらくそれに両手を添えた。機械がその重力に悲鳴を上げて、はじめて、電話を壊しかけた自分を発見して、苦笑した。
――――こんな顔はとても娘たちに見せられないわね、春実にだけで十分。
「ま、お茶の準備くらいしてあげなきゃ ――――」
そう言うと、夏枝は紅茶の準備を始めた。ダージリンの一風変わった品である。口ではそう言うが意外にはりきっている城主婦人であった。
ものの、五分と係らずに、女弁護士はやってきた。
ちなみに、夏枝が子呼ばわりした谷崎はいなかった。
「クビにしたのよ、育児役に再雇用したわけ ――――」
自分の首を手刀で切るマネをして、笑っているのは、言うまでもなく財前春実弁護士である。結婚を再雇用などと言うのは、まさに春実らしい。
「まったく、まだ用意も出来ていないのに、まあ、いいわ。いつものところで座ってて」
親友をリビングに押しやると、自身はキッチンに戻って、自家製のレモンケーキを切り分け始めた。
春実は、言われる通りにリビングに向かう。両家は家族同士の付き合いをしてきたので、かつて知った家と言って良い。
12畳ほどのリビングの中央に降りるシャンデリアやコの形に配置されたソファは、ここが、家族のための部屋であることを暗示している。それら記号としての家族はたしかに機能している。しかし、その実情はどうか。親友の目からすると、それなりに機能しているように見える、それはそれでいいのだが・・・・・・。
いつまでその状態が保全されるのか、大変心配である。
もっと、懸念されるのはその種を蒔いたのが自分だからだ。
「12年か ――――」
しみじみと春実は、部屋を見回す。こんな大邸宅の割に、こぶりのリビングである。全城主である建造に言わせると、「家族の団欒のためには、このていどの大きさがちょうどいい」ということになる。もっとも、この家に招待される一般市民からすると、その考えに首肯する気にならないだろう。
それにしても小綺麗にしているのは、さすがに、専業主婦の鏡である夏枝の面目躍如ということだろう。これが春実ならそうはいかない。家庭のことはほとんど夫に任せている。
沈思黙考していると、レモンの甘酸っぱい匂いが漂ってきた。
「春実、何しているのよ、座りもしないで ――」
「そうね」
ハンドバッグを膝の上に載せながら体重を荘重なソファに預ける。その仕草がいかにもおもしろかったのか。カラカラと笑う。
不満げな色を綺麗な形の頬に乗せる
「何よ」
「妙に他人行儀だから」
「弁護士なんてやってると誰でもそうなるわよ、いやでもね。そうだ、本題に入ろうか ――」
話題を転じようとすると、とたんに夏枝の顔が曇った。
「いい加減に真相を告げなさいよ、陽子に」
「・・・・・・・・・・・・・・」
夏枝は黙りを決め込んだ。
――――真相ね。
我ながらよくもそんな単語を舌の上に載せられると感心させられる。しかし、あえて言わねばならない。
「鋭敏なあの子のこと、きっとおかしいと思っているわよ。いかにこの土地の人が古風で、口が堅いって言ってもね。旧い新聞を調べられたらアウト。今まで、あの頭の良い子にばれなかったのは奇蹟と言ってもいい ―――もしかしたら、すべて知っているのかも」
「お春ちゃん!?」
気色ばむ夏枝。
「あなたに何がわかるのよ! どれほど気を遣ってきたか。私だけじゅない、あの人や、薫子も ―――」
「それをうすうすとわかっているって言うのよ。具体的にはわからなくてもね」
春実の言うことはわかる。しかし、それが正論ゆえに腹が立つのだ。これまでどれほどあの子のために骨を折ってきたか。
「あの子が、ルリ子が ―――」
春実は目を見張った。あの子というニュアンスがすこしばかり違う。
「ああいうことになって、すぐに、妊娠だなんて不自然でしょう?!」
自分の論理がいかに不自然か、すぐれた知性に恵まれた夏枝がわからないということはない。自分で言っていて不思議だった。どうして、ここまでルリ子の存在を陽子に隠匿してきたのだろう。あの優しい子のことだ。あまりに可哀想な死に方をした姉のことを心から供養するにちがいない。たとえ、一回も出会ったことがなくても ――――。
たしかに啓三の意見もあったが、忘れたかったのだ、あのような悲劇があったことを! そして、あの時抱いていた珠のような赤ん坊に、影響を与えたくなかった。それほどまでに、赤子の温もりに触れた瞬間に、愛情を感じたのだ。
しかし、そうであっても、ルリ子のことを忘れたわけではない。そんなことはありえない。一時であっても、あの子ことが脳裏から消え去るなどということはない。陽子はあの子の代わりではないのである。
もっとも、怖ろしいのは、自分の醜さだった。
本当に、大事だったのは身の保全ではないか。
やはり、あの出来事を嘘にしたかったのだ。だが、そうなると矛盾する ―――――。
夏枝は頭を抱えると、ソファに伏した。そして、声に泣き声をしのばせた。
「そうよ、どうしたらいいのかわからないの。言うべきタイミングを失ってしまったのよ、いまさら ―――」
「夏枝、陽子は家族でしょ!」
その言葉に、母は飛び上がった、あたかも、身体の中にバネがあるのではないかと、春実に錯覚させたぐらいだ。
「当たり前でしょう!? お春ちゃん!!」
夏枝は寄り添ってきた春実にしがみついて抗議した。しかし、それこそ親友が望んだことだった。
―――ワタシ、悪魔ね。
本当に泣きわめきたかったのは、春実である。自分が侵した罪を考えると、胸が張り裂けそうな気がする。しかし、あの時、自分を裏切った夏枝に対して反感を持っていたのは事実である。それは今も影響しつつある。
複雑な気持を孕みながら、春実は夏枝を抱き締めた。その身体に流れる血潮を感じるとやはり、罪 悪感に身を焼かれる。その流れは、ツライ、ツライ!と言っている。
「夏枝、ごめんなさい。でも、私だって簡単に言っている訳じゃないのよ、考えて欲しいって ―――――」
春実の声を遮る何かが、その時、空間をまっぷたつに引き裂いた。扉が開く音と、哀しいまでに高音の金切り声。その不思議な二重奏は、春実の耳には死刑の通告に聞こえた。
「ルリ子って誰? はあ、はあ・・・・・」
「よ、陽子!?」
「陽子ちゃん・・・・・・」
かたつむりの身体と殻のようにふたりは一心同体のように、陽子は見えた。しかし、その姿は涙のだめにぼんやりとなっている。まるでセザンヌの印象画にしかみえない。この世でももっとも信頼しているはずの二人が自分に何を隠しごとしていたというのだろう。
「どうしたの? お昼前よ ―――」
何故か、冷静な言葉が出てくるのが不思議だった。朝、弁当を持たせたことが一秒前の出来事のようだ。
「忘れてはいけないものを忘れてしまったのよ、お母さま ――――。それよりも、ルリ子、いや、ルリ子さんって誰?」
陽子の怒った顔に久しぶりに出会った。何処か哀しげな色を整った顔に乗せる。その時、上品な鼻梁は小刻みに揺れて、いささかなりともピンクを帯びる、そして、大きな瞳は涙に揺れている。まるで黒曜石だ。
――――総てを悟られた。
ふたりは心の内をすべて見抜かれたように思えた。ただし、両者にとっての真実とはその色合いを異なるものにしている。意味合いが違うのだ。
だが、夏枝は踏みとどまった。ここはもっとも大事な宝箱を開けてはならない。それはパンドラの箱なのである。
「ルリ子はねえ、ルリ子は・・・・・・・」
「お母さま?!」
しかし、陽子は只ならぬ母親のようすに表情を変えた。怒りの武装を解こうとしていた。一言、発するたびに、身体中の痛覚が刺激されるようだ。それは、しかし、陽子にも伝わっていたのである。
愛する母の苦痛が我が事のように感じられる。しかし、ここで垣間見てしまった真実に背中を向けるわけにはいかない。
「?お母さま? その方は?」
「ルリ子はねえ、あなたのお姉さまなのよ」
この時、はじめて、茫然自失の春実は意識を取り戻した。冷静沈着な本分を発揮させようとする。親友の重荷をかづくことにした。
「あなたのお姉さんは、殺されたのよ。あなたが産まれる前にね」
「お春ちゃん!?」
はじめて、春実のことをそう呼ぶのを聞いた。ただでさえ親しい間柄だが、目の前のふたりは姉妹のように見える。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。今は、再び蘇ってきた憤怒の感情に身を委ねるだけだ。
「なんで ・――――、私は、知らないの? か、薫子お姉さまも知ってるんでしょう!?」
歳柄にも遭わない大人びた上品さをかなぐり捨てて、単なる12歳の童女に戻っていた。
「私は ―――、私は ―――??はあはあ」
まるでフルマラソンを始めて走りきったランナーのように、息を乱す陽子。夏枝は、我が子を抱きしめたくなった。しかし、身体が動かない。全身が麻痺している。
激しい憤怒と自責の念で身体が張り裂けそうになった。
自分が産まれる前に殺された? しかも、それを知らずにぬくぬくと育ってきた。お母さまや家族を独占して? そんな自分を許せなかったのである。そのことを自分に隠してきた家族に対する憤怒よりも、自責の念が凌いだ。
「ウウウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ、うう。お、おかわいそうに、ルリ子お姉さま・・・・ど、どうして、殺されたの!?」
床に伏して激しく泣きじゃくる陽子。夏枝は、このまま彼女をこのままにしていたら、異なる次元に飛ばされてしまうのではないかと危惧した。
「陽子ちゃん、ルリ子は、ねえ、ルリ子は・・・・」
ようやく、身体の自由を取り戻した夏枝は、覆い被さるように愛娘に辿り着く。
一方、春実は自分のすべきことを思いだした軍人のように、任務に足を踏み出そうとする。
陽子のピアニストのような手を摑むと、大人の口を開く。
「それは、聞いちゃだめ。陽子ちゃん。そうすると、みんなが傷つくことになるわ。きっと、夏枝はもう生きていけないわよ。約束してちょうだい。16歳になるまで詮索しないって ――」
「おばさま ――――」
陽子の手はとても冷たかった。凍りついているのではないかと、思った。しかしながら、16歳などという年齢を持ち出すところ、自分は法律家なのだと思った。
――――とんでもない悪徳弁護士だ。
凍りつきそうな美少女の手を必死に温めながら、春実はそう思わざるを得なかった。
――――これから、ずっとこうだといいわ。
自分に言い聞かせるように、空に視線を遣ると、人の背の二倍くらいはある板チョコのようなドアを閉めた。
玄関を入ると客人は正面にある絵画に魂を奪われることになる。キュビズムと言うべきか、それともシュールレアリズムなのか、大抵の客人は評価に苦心することになる。
長崎城主の邸宅ともなれば、客人の数は、普通の家の倍増しとなる。彼らは、この絵をどう批評しようかと頭を悩ませる。
ところが、彼らは総じて同じ感想を持つ。
それは、この絵が醸し出している圧倒的な幸福感である。
同時に、女主人の笑顔を見ると救われるような気分になる。同時に、彼女の娘がいたとすれば、それは完全なものになるだろう。ちなみに、彼女は絵の制作者である。もっとも、その年代はほぼ10年前という断りがつくのである。
言うまでもなく次女である陽子が描いた幼児画である。両親と姉である薫子が楽しげに並んだその絵は、ひとつの幸せな家庭を余すところなく表現しきっている。誰しも、その絵がこの家庭のフラクタル図形になっていることを思い知る。言い換えれば幸福の雛形になっているということになろうか。
当の陽子は恥ずかしがるのだが、夏枝は来客の度に、それを紹介するのだった。あたかも、自分の家の幸福を喧伝するように。
玄関から90度曲がって、回廊が続く。その設計は、あたかも、この絵が飾られるために為されたかのようだ。
この邸宅は陽子がこの世に生を受ける以前から建っているのだから、当時の建築家がそれを予見していたとしか思えない。
それほどまでに、この絵は建物に溶け込んでいたのである。ほぼ同一化していると言っていい。
「・・・・・・・・」
夏枝は、意味ありげに微笑を浮かべると履き物を脱ぐ。良家の子女らしく、優雅な手つきでそれを整えて置いた。
鈍く光る皮は、彼女の複雑な心理をぼんやりながらも描写しているようで、気持ち悪くなって思わず目を背けた。あたかも、罪を犯したばかりの人間が鏡で自分の顔を仰ぐようなそんなイメージである。
――――別に、私は犯罪者じゃないのに ・・・・・・・・・そうだ、今日は電話が。
その時、ルルルルルという電話の呼び出し音が響いてきた。まるで、彼女の心理を読み取ったようなタイミング。まさに、その相手らしいと受話器を取りもしないのに、勝手に相手を決めつけていた。
はたして ――――。
「春実でしょう?」
「え? 夏枝? またわかちゃった?」
「またまた、人を超能力者みたいに ―――」
夏枝は、さきほど流行のSFアニメを思い浮かべた。陽子から又聞きしたのだ。学校でも流行になっているらしい。
「夏枝のエスパー能力は廃れないようね。昔は、おにぎりの中身を当てたりとか ――」
「偶然だってば ―――」
普段は見せない笑顔をこのときとばかりに発揮する。もっとも、今、彼女以外に、この広い邸宅にいるのは猫の、ピエトロだけなのだが・・・・・・・・。優しい母親の姿しかしらない陽子にとってみれば、こんな彼女の姿は意外かもしれないが、けっして、単なる良家の子女に、その性格は留まらないのである。
普段は、誰もいないとはいえ、簡単に油断した顔などを晒すようなマネはしない。愛娘の絵が視線に入ると、すこしばかり表情を整えて口を開いた。
「今頃、あなたから電話があることは、わかっているのよ。毎年のことだし ――――」
「そうだね。薫子ちゃんはどうなの」
「あの子なら、定期的に行っているみたいだし ――――それに」
「あまり大がかりにやると、ばれちゃうか ――――」
「お春ちゃん?!」
夏枝は、声に感情を込めた。怒りを親友に対して表すとき、決まってこの幼名とでも言うべき呼び方をする。別に、彼女が嫌がるという理由でもなさそうだが、その由来は、本人でもわからない。
「電話じゃ、詳しく話せることじゃないけど、さ、いつか ――――だよ。あの子、あなてに似て、見かけによらず勘が鋭いからさ」
「うん ――そうだけど」
心配げに、再び絵に視線を戻る。それを止まらせたのは、親友の次のような台詞だった。
「これから、あなたの家に行っていい?」
「春実?!」
何故か、親友に今の自分を見せたくなかった。しかし、別に断る理由も見あたらないので ――。
「わかったわ。だけど仕事は? 今、何処にいるの?」
「諫早駅前の喫茶店。車で五分ってところかな。大丈夫よ、それでいつも子連れてくるの?」
「夏枝、未だに子もないじゃない? 少なくとも、私の夫なのよ、ははは。」
当時としては大変珍しいできちゃった婚だった。そんな言葉すらなかった時代のことだ。それに、春実は、夏枝に劣らず良家の子女なのである。城下町は噂でかまびすしかったが、そんなものにへこたれる春実ではなかった。
ちなみに、その時に産まれた娘の永和子は陽子の親友である。
「じゃあ、切るね ―――」
夏枝は、アールデコ的な意匠に彩られた受話器を置くと、しばらくそれに両手を添えた。機械がその重力に悲鳴を上げて、はじめて、電話を壊しかけた自分を発見して、苦笑した。
――――こんな顔はとても娘たちに見せられないわね、春実にだけで十分。
「ま、お茶の準備くらいしてあげなきゃ ――――」
そう言うと、夏枝は紅茶の準備を始めた。ダージリンの一風変わった品である。口ではそう言うが意外にはりきっている城主婦人であった。
ものの、五分と係らずに、女弁護士はやってきた。
ちなみに、夏枝が子呼ばわりした谷崎はいなかった。
「クビにしたのよ、育児役に再雇用したわけ ――――」
自分の首を手刀で切るマネをして、笑っているのは、言うまでもなく財前春実弁護士である。結婚を再雇用などと言うのは、まさに春実らしい。
「まったく、まだ用意も出来ていないのに、まあ、いいわ。いつものところで座ってて」
親友をリビングに押しやると、自身はキッチンに戻って、自家製のレモンケーキを切り分け始めた。
春実は、言われる通りにリビングに向かう。両家は家族同士の付き合いをしてきたので、かつて知った家と言って良い。
12畳ほどのリビングの中央に降りるシャンデリアやコの形に配置されたソファは、ここが、家族のための部屋であることを暗示している。それら記号としての家族はたしかに機能している。しかし、その実情はどうか。親友の目からすると、それなりに機能しているように見える、それはそれでいいのだが・・・・・・。
いつまでその状態が保全されるのか、大変心配である。
もっと、懸念されるのはその種を蒔いたのが自分だからだ。
「12年か ――――」
しみじみと春実は、部屋を見回す。こんな大邸宅の割に、こぶりのリビングである。全城主である建造に言わせると、「家族の団欒のためには、このていどの大きさがちょうどいい」ということになる。もっとも、この家に招待される一般市民からすると、その考えに首肯する気にならないだろう。
それにしても小綺麗にしているのは、さすがに、専業主婦の鏡である夏枝の面目躍如ということだろう。これが春実ならそうはいかない。家庭のことはほとんど夫に任せている。
沈思黙考していると、レモンの甘酸っぱい匂いが漂ってきた。
「春実、何しているのよ、座りもしないで ――」
「そうね」
ハンドバッグを膝の上に載せながら体重を荘重なソファに預ける。その仕草がいかにもおもしろかったのか。カラカラと笑う。
不満げな色を綺麗な形の頬に乗せる
「何よ」
「妙に他人行儀だから」
「弁護士なんてやってると誰でもそうなるわよ、いやでもね。そうだ、本題に入ろうか ――」
話題を転じようとすると、とたんに夏枝の顔が曇った。
「いい加減に真相を告げなさいよ、陽子に」
「・・・・・・・・・・・・・・」
夏枝は黙りを決め込んだ。
――――真相ね。
我ながらよくもそんな単語を舌の上に載せられると感心させられる。しかし、あえて言わねばならない。
「鋭敏なあの子のこと、きっとおかしいと思っているわよ。いかにこの土地の人が古風で、口が堅いって言ってもね。旧い新聞を調べられたらアウト。今まで、あの頭の良い子にばれなかったのは奇蹟と言ってもいい ―――もしかしたら、すべて知っているのかも」
「お春ちゃん!?」
気色ばむ夏枝。
「あなたに何がわかるのよ! どれほど気を遣ってきたか。私だけじゅない、あの人や、薫子も ―――」
「それをうすうすとわかっているって言うのよ。具体的にはわからなくてもね」
春実の言うことはわかる。しかし、それが正論ゆえに腹が立つのだ。これまでどれほどあの子のために骨を折ってきたか。
「あの子が、ルリ子が ―――」
春実は目を見張った。あの子というニュアンスがすこしばかり違う。
「ああいうことになって、すぐに、妊娠だなんて不自然でしょう?!」
自分の論理がいかに不自然か、すぐれた知性に恵まれた夏枝がわからないということはない。自分で言っていて不思議だった。どうして、ここまでルリ子の存在を陽子に隠匿してきたのだろう。あの優しい子のことだ。あまりに可哀想な死に方をした姉のことを心から供養するにちがいない。たとえ、一回も出会ったことがなくても ――――。
たしかに啓三の意見もあったが、忘れたかったのだ、あのような悲劇があったことを! そして、あの時抱いていた珠のような赤ん坊に、影響を与えたくなかった。それほどまでに、赤子の温もりに触れた瞬間に、愛情を感じたのだ。
しかし、そうであっても、ルリ子のことを忘れたわけではない。そんなことはありえない。一時であっても、あの子ことが脳裏から消え去るなどということはない。陽子はあの子の代わりではないのである。
もっとも、怖ろしいのは、自分の醜さだった。
本当に、大事だったのは身の保全ではないか。
やはり、あの出来事を嘘にしたかったのだ。だが、そうなると矛盾する ―――――。
夏枝は頭を抱えると、ソファに伏した。そして、声に泣き声をしのばせた。
「そうよ、どうしたらいいのかわからないの。言うべきタイミングを失ってしまったのよ、いまさら ―――」
「夏枝、陽子は家族でしょ!」
その言葉に、母は飛び上がった、あたかも、身体の中にバネがあるのではないかと、春実に錯覚させたぐらいだ。
「当たり前でしょう!? お春ちゃん!!」
夏枝は寄り添ってきた春実にしがみついて抗議した。しかし、それこそ親友が望んだことだった。
―――ワタシ、悪魔ね。
本当に泣きわめきたかったのは、春実である。自分が侵した罪を考えると、胸が張り裂けそうな気がする。しかし、あの時、自分を裏切った夏枝に対して反感を持っていたのは事実である。それは今も影響しつつある。
複雑な気持を孕みながら、春実は夏枝を抱き締めた。その身体に流れる血潮を感じるとやはり、罪 悪感に身を焼かれる。その流れは、ツライ、ツライ!と言っている。
「夏枝、ごめんなさい。でも、私だって簡単に言っている訳じゃないのよ、考えて欲しいって ―――――」
春実の声を遮る何かが、その時、空間をまっぷたつに引き裂いた。扉が開く音と、哀しいまでに高音の金切り声。その不思議な二重奏は、春実の耳には死刑の通告に聞こえた。
「ルリ子って誰? はあ、はあ・・・・・」
「よ、陽子!?」
「陽子ちゃん・・・・・・」
かたつむりの身体と殻のようにふたりは一心同体のように、陽子は見えた。しかし、その姿は涙のだめにぼんやりとなっている。まるでセザンヌの印象画にしかみえない。この世でももっとも信頼しているはずの二人が自分に何を隠しごとしていたというのだろう。
「どうしたの? お昼前よ ―――」
何故か、冷静な言葉が出てくるのが不思議だった。朝、弁当を持たせたことが一秒前の出来事のようだ。
「忘れてはいけないものを忘れてしまったのよ、お母さま ――――。それよりも、ルリ子、いや、ルリ子さんって誰?」
陽子の怒った顔に久しぶりに出会った。何処か哀しげな色を整った顔に乗せる。その時、上品な鼻梁は小刻みに揺れて、いささかなりともピンクを帯びる、そして、大きな瞳は涙に揺れている。まるで黒曜石だ。
――――総てを悟られた。
ふたりは心の内をすべて見抜かれたように思えた。ただし、両者にとっての真実とはその色合いを異なるものにしている。意味合いが違うのだ。
だが、夏枝は踏みとどまった。ここはもっとも大事な宝箱を開けてはならない。それはパンドラの箱なのである。
「ルリ子はねえ、ルリ子は・・・・・・・」
「お母さま?!」
しかし、陽子は只ならぬ母親のようすに表情を変えた。怒りの武装を解こうとしていた。一言、発するたびに、身体中の痛覚が刺激されるようだ。それは、しかし、陽子にも伝わっていたのである。
愛する母の苦痛が我が事のように感じられる。しかし、ここで垣間見てしまった真実に背中を向けるわけにはいかない。
「?お母さま? その方は?」
「ルリ子はねえ、あなたのお姉さまなのよ」
この時、はじめて、茫然自失の春実は意識を取り戻した。冷静沈着な本分を発揮させようとする。親友の重荷をかづくことにした。
「あなたのお姉さんは、殺されたのよ。あなたが産まれる前にね」
「お春ちゃん!?」
はじめて、春実のことをそう呼ぶのを聞いた。ただでさえ親しい間柄だが、目の前のふたりは姉妹のように見える。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。今は、再び蘇ってきた憤怒の感情に身を委ねるだけだ。
「なんで ・――――、私は、知らないの? か、薫子お姉さまも知ってるんでしょう!?」
歳柄にも遭わない大人びた上品さをかなぐり捨てて、単なる12歳の童女に戻っていた。
「私は ―――、私は ―――??はあはあ」
まるでフルマラソンを始めて走りきったランナーのように、息を乱す陽子。夏枝は、我が子を抱きしめたくなった。しかし、身体が動かない。全身が麻痺している。
激しい憤怒と自責の念で身体が張り裂けそうになった。
自分が産まれる前に殺された? しかも、それを知らずにぬくぬくと育ってきた。お母さまや家族を独占して? そんな自分を許せなかったのである。そのことを自分に隠してきた家族に対する憤怒よりも、自責の念が凌いだ。
「ウウウ・ウ・ウ・ウ・ウウウ、うう。お、おかわいそうに、ルリ子お姉さま・・・・ど、どうして、殺されたの!?」
床に伏して激しく泣きじゃくる陽子。夏枝は、このまま彼女をこのままにしていたら、異なる次元に飛ばされてしまうのではないかと危惧した。
「陽子ちゃん、ルリ子は、ねえ、ルリ子は・・・・」
ようやく、身体の自由を取り戻した夏枝は、覆い被さるように愛娘に辿り着く。
一方、春実は自分のすべきことを思いだした軍人のように、任務に足を踏み出そうとする。
陽子のピアニストのような手を摑むと、大人の口を開く。
「それは、聞いちゃだめ。陽子ちゃん。そうすると、みんなが傷つくことになるわ。きっと、夏枝はもう生きていけないわよ。約束してちょうだい。16歳になるまで詮索しないって ――」
「おばさま ――――」
陽子の手はとても冷たかった。凍りついているのではないかと、思った。しかしながら、16歳などという年齢を持ち出すところ、自分は法律家なのだと思った。
――――とんでもない悪徳弁護士だ。
凍りつきそうな美少女の手を必死に温めながら、春実はそう思わざるを得なかった。
意識を失ってあおいは新たなる翼を得た。
ところが、いちど空に向かって羽ばたいてみると、それは秋の空のように小春日和の清々しい空間を飛翔するための道具でないことがわかった。
音もなく、少女は大地に降り立った。虚空に浮かんでいることに、そこはかとない恐怖と不安を怯えたのである。
しかし、そこは彼女にとってほんとうに安泰な場所なのだろうか。
思い出したくもない過去。言い換えれば、例え、どんなすばらしい大地にも、地下には地層があり、 その一つには悪魔の糞便で固められた層もあるということだ。
言わんや、げんざい、あおいが置かれている状態は混迷を極めている。その過去にはいったい、何があるのか。まったく想像できない。立っている大地がけっして、堅実でないことは微かに触れる今の状況が何よりの証左になるだろう。
過去という地下から、何か悪い記憶が噴出しているにちがいないのだ。
それが、温泉のような頬笑ましい鉱床でないだろうことは、もはや、自明の理である。
少女の耳に、場違いな固有名詞と単語が飛び込んできた。
―――フランス人です! 彼奴らが! しかも警官じゃなくて、軍隊が!!
それはほとんど悲鳴に近かった。
(フランス人?!)
あおいは、まだあどけなさの残る、いや、幼い唇をかすかに震わせて、その固有名詞を繰り返した。
少女が10年あまりの人生で得た知識によれば、その国はヨーロッパの片隅によりそうように存在する。いわば、島国である。
ところが、世界中に植民地を形成し、帝国を作ったらしい。有希江と徳子の会話が、断片のように少女の記憶に突き刺さっていた。
だから、特別な敵意や怖れがあるわけではない。しかし、少女が夢想の中で遭遇したトリコロール(三色旗)からは、ただ一つの言葉が飛び出てくる。
文明人の顔をした蛮族。
どうして、イチゴのような自分の頭からこんなさかしげな言葉が飛び出し、それが理解できるのか、少女は不思議でたまらない。まるで、思考する自分とそれを受け止める自分が互いに乖離しているように思える。大人になった自分と交流しているような、いや、ちがう。
それは巨大な過去だ。
大過去。
かつて、徳子が口にしていた単語だが、その意味はまったくわからない。ものすごく大昔ということだろうか。
とにかく、あおいは、正確を期すならば、あおいらしき人物は、フランス人なるものを蛇蝎のように嫌っている。
それにしてもこの熱はなんだろう。雲一つ無い空から降り注いでくる。かつて、親しみを込めてアポロンと呼んでいた太陽はそこにはない。
かつて?
自分は、何処にいたのだろう。しかし、いくら思いだそうとしても、明確な地名は浮かんで来ない。ただ、高原と豊かな緑、それに温かな陽光というイメージだけが浮かんでくる。
あおいの立ち位置は、そんな呑気な場所ではない。立っているだけで死がやってくる。
ただ、黄色い残酷な塊が、灼熱を置くってくるだけだ。全身が火だるまになりそうだ。数分だけでも直射日光に浴びていると、肌に火ぶくれができる。
アギリ。
それは国名だと確信した。巨大な熱とイコールでその短い固有名詞が結ばれた。
人々の声、怒声と悲鳴。
そして、それらを彩るように銃声。肉体を叩く特有の音。渇いたという単調な形容詞では表現しきれない耳に不快な響き。胎内に水分と油を多分に含んでいるのだから、それは当たり前だろう。
そして、それらに護られるように骨や筋肉といった組織が存在する。エモノは、それこそを破壊すべく叩きつけるわけだが、不快な音の原因は前者にこそある。
――――止めて!、止めなさい!ヒイ!?
蛮行を必死に収めようとしたあおいだったが、自らの身体が危険となれば、とっさに防御に走るのが人間というものだろう。
少女は、身を縮めて攻撃を避けようとした。
―――殺される!!
そう思って屈んだ瞬間、彼女は信じられないものを目撃することになる。
自分の変わりに、友人の男性が犠牲になっていた。彼は、フランス兵の残酷な銃剣の一刀によって、無惨な屍に成りはてていた。
「!」
それは、彼女の記憶をどうひっくり返しても、出てきそうにないほどに残酷な体験だった。
しかし、彼女を驚かせたのは、それではなかった。どう見ても粗野な一兵士の言い放った言葉だった。
「なんだ、おめえ、人間じゃないか!? こんなところで何をしてるんだ。おい、ピエール、この方を中尉殿のところへつれていけ」
「やめて! 離して!!!」
「あおい!」
「ぁぁあっぁあ!?」
身体が激しく揺さぶられた。それは人間業とは思えなかった。何か巨大な力で魂ごと二つに切り裂かれるような気がした。
しかし、よく見てみれば、赤木啓子であることがわかった。
「け、啓子ちゃん・・・ぅうあう!?
「あおい!?」
「ァァゥアァウ・・・・」
弓なりになって股間を押さえるあおい。
ほぼ、無意識のうちにその姿勢を取ったのは、下半身に隠された秘密を親友から隠すためだ。しかし、あおいのそんな有様は、見る人にその深刻さをアピールするだけだった。
しかも、啓子は普段の冷静さを完全に失っている。
「せ、先生、救急車を呼んで下さい!」
いつになく、動揺と混乱の二重奏を鳴らす啓子。教師は、そのようすにあっけにとられたのか、すぐに対応できなかった。
「だ、大丈夫です!! ウ・ウ・ウ・ウ」
あおいは必死に訴えた。そんなことをされたらたまらない。下半身の恥ずかしい秘密が露見してしまう。
辺りを見回すと、白いカーテンが見えた。ここが看護室であることがわかった。どうやら、気を失っている間に連れてこられたようだ。
――――まさか、見られてるってことは!?
あおいは動揺を隠せなかったが、周囲のようすを鑑みてそんなことはないらしい。ふいに、親友の苛立つ声が響く。
「看護室に、校医と看護婦がいないってどういうことですか?」
その声は、逆立っていて、今にも周囲に殴りかかりそうだ。
「どうしたんですか? 校医さんは!?」
慌てて入室してきた両者に文句を言っているのだ。普段、冷静な態度に徹している彼女らしくない。
そんな間にも、股間の異物は幼い性器を刺激しつつ動き回る。
正確には、あおいが動くために、そのように錯覚するのだが、被害妄想と言われても、少女にしてみればそう思わざるを得ない。
身体を砂漠にでも埋めたくなるほどの羞恥に蝕まれている今であっても、そのくらいの判断はできた。灼熱の砂はきっと、この身体から浸みてくる羞恥心を焼き切ってくれるだろう。
「赤木さん、落ち着きなさい!」
担任の声が聞こえる。啓子を冷静に戻そうとする彼女の姿が目に見えるようだ。目を瞑ってもありありとその映像が浮かぶ。
「校医さんが来たから! 落ち着きなさい」
しかし、それは違う世界から響いてくるようだ。あおいや啓子が立っている地面とはあきらかに風の色も、大地の匂いもちがう。
「啓子!!」
しかし、彼女の声だけはしっかりとした実体を持って迫ってくる。
その時、二人は手を繋ぎ合った。
二人とも時間の感覚を完全に失っていたのて、校医が声を掛けたことに気づいていなかった。
「ああ ――」
「赤木さん ―」
担任である阿刀久美子も、そこに控えていた。
「はい・・・・・・」
恐縮するようにあおいから離れる。その手と手との連結が切り離されるとき、二人の間で微かな体温のやりとりがあった。熱伝導の法則から高音から低音へと伝わった。それはもしかしたら、メッセージだったのかもしれない。少なくとも、あおいはそう受け取ったことだろう。
手を握り合った瞬間、啓子は、その手の冷たさに、そして、あおいは、その手の温度に驚愕した。
触れた方は、触れられた方の死を直感してひるんだ。
「あおい!!」
校医や久美子の静止も聞かずに、親友の骸、彼女が勝手にそう思っているだけだが、それに上からまとわりついた。その勢いは、対象に対して飛びかからんばかりか、取って喰おうというほどまでに増していたのである。
「ぁああ、あぐうう!!」
胸郭に、啓子の両手が触れたとたんに、あおいは、小動物的な悲鳴を上げた。それと同時にぴくんと弓なりに、身体を曲げると小さく痙攣した。
「あ、あおい!?」
啓子は、ますます、親友が重病だという思いを強くした。しかし、当の本人はそれどころではなかったのである。命に関わる病気を凌駕する出来事とはどんなことだろう。
「ウウ・ウ・・・ウ・ウウ・ウウ!」
あおいは、シクシクと泣き出した。顔を真っ赤にして、小刻みに震えている。涙が、さくらんぼうに垂れた水滴のように、流れていく。
まるで、友人が手の届かない処に行ってしまったのではないかと思った、この小さな身体から離れて再び ――――。
再び?
啓子は、絶句した。自分の身体からわき上がってくるものに、恐れおののいた。まるで自分でないものに、操られているような、それこそ、何か得体の知れない亡霊に身体に乗りうつられて支配されてしまったのではないか。
今まで、あおいに何処かに行かれたことなど、いちどもない。あるとすれば幼児体験だ。あおいと遊んでいて、彼女の母親が突然、連れて行ってしまう。しかし、それは自分の母親も自分に対して、同じ事をしたのだ。
しかし、そんなことは、何処の世界でもありえる、ありふれた出来事だろう。だが、その時感じたやるせない気持は、今になっても思い出すことがある。淋しいような哀しいような不思議な気分。夕日に溶かされるあおいの背中を見つめていると、もう、永遠に彼女に出会えないような気がする。そればかりか、彼女に出会って互いに紡いできた時間がすべて嘘で、錯覚にすぎないのではないか。
幼児だったので、そこまで具体的に言語化できたわけではないが、意識の周辺でそのような気持を強くしていた。
けれども、おもちゃのシャベルを持っている方の肩を母親に叩かれたとき、あおいと同じように自分の家に帰っていくのである。その時にはもはや、そのようなもやもやは、あさっての方向にうっちゃってしまっているのだが。
あおいは、死んだサバのように冷たい腹を見せている。先ほどまで燃えていた炎は、いつしか消え去って、兵ものどもが夢の後のような跡のような、無常観だけが死後の魂のように残存していた。
その中では、啓子が想像できない戦場が展開していたのである。しかし、部屋の外からは、戦場の火を再び灯すような人物が足音を立てていた。あるいは、不発弾が少女の中に残っていたのかもしれない。
ところが、いちど空に向かって羽ばたいてみると、それは秋の空のように小春日和の清々しい空間を飛翔するための道具でないことがわかった。
音もなく、少女は大地に降り立った。虚空に浮かんでいることに、そこはかとない恐怖と不安を怯えたのである。
しかし、そこは彼女にとってほんとうに安泰な場所なのだろうか。
思い出したくもない過去。言い換えれば、例え、どんなすばらしい大地にも、地下には地層があり、 その一つには悪魔の糞便で固められた層もあるということだ。
言わんや、げんざい、あおいが置かれている状態は混迷を極めている。その過去にはいったい、何があるのか。まったく想像できない。立っている大地がけっして、堅実でないことは微かに触れる今の状況が何よりの証左になるだろう。
過去という地下から、何か悪い記憶が噴出しているにちがいないのだ。
それが、温泉のような頬笑ましい鉱床でないだろうことは、もはや、自明の理である。
少女の耳に、場違いな固有名詞と単語が飛び込んできた。
―――フランス人です! 彼奴らが! しかも警官じゃなくて、軍隊が!!
それはほとんど悲鳴に近かった。
(フランス人?!)
あおいは、まだあどけなさの残る、いや、幼い唇をかすかに震わせて、その固有名詞を繰り返した。
少女が10年あまりの人生で得た知識によれば、その国はヨーロッパの片隅によりそうように存在する。いわば、島国である。
ところが、世界中に植民地を形成し、帝国を作ったらしい。有希江と徳子の会話が、断片のように少女の記憶に突き刺さっていた。
だから、特別な敵意や怖れがあるわけではない。しかし、少女が夢想の中で遭遇したトリコロール(三色旗)からは、ただ一つの言葉が飛び出てくる。
文明人の顔をした蛮族。
どうして、イチゴのような自分の頭からこんなさかしげな言葉が飛び出し、それが理解できるのか、少女は不思議でたまらない。まるで、思考する自分とそれを受け止める自分が互いに乖離しているように思える。大人になった自分と交流しているような、いや、ちがう。
それは巨大な過去だ。
大過去。
かつて、徳子が口にしていた単語だが、その意味はまったくわからない。ものすごく大昔ということだろうか。
とにかく、あおいは、正確を期すならば、あおいらしき人物は、フランス人なるものを蛇蝎のように嫌っている。
それにしてもこの熱はなんだろう。雲一つ無い空から降り注いでくる。かつて、親しみを込めてアポロンと呼んでいた太陽はそこにはない。
かつて?
自分は、何処にいたのだろう。しかし、いくら思いだそうとしても、明確な地名は浮かんで来ない。ただ、高原と豊かな緑、それに温かな陽光というイメージだけが浮かんでくる。
あおいの立ち位置は、そんな呑気な場所ではない。立っているだけで死がやってくる。
ただ、黄色い残酷な塊が、灼熱を置くってくるだけだ。全身が火だるまになりそうだ。数分だけでも直射日光に浴びていると、肌に火ぶくれができる。
アギリ。
それは国名だと確信した。巨大な熱とイコールでその短い固有名詞が結ばれた。
人々の声、怒声と悲鳴。
そして、それらを彩るように銃声。肉体を叩く特有の音。渇いたという単調な形容詞では表現しきれない耳に不快な響き。胎内に水分と油を多分に含んでいるのだから、それは当たり前だろう。
そして、それらに護られるように骨や筋肉といった組織が存在する。エモノは、それこそを破壊すべく叩きつけるわけだが、不快な音の原因は前者にこそある。
――――止めて!、止めなさい!ヒイ!?
蛮行を必死に収めようとしたあおいだったが、自らの身体が危険となれば、とっさに防御に走るのが人間というものだろう。
少女は、身を縮めて攻撃を避けようとした。
―――殺される!!
そう思って屈んだ瞬間、彼女は信じられないものを目撃することになる。
自分の変わりに、友人の男性が犠牲になっていた。彼は、フランス兵の残酷な銃剣の一刀によって、無惨な屍に成りはてていた。
「!」
それは、彼女の記憶をどうひっくり返しても、出てきそうにないほどに残酷な体験だった。
しかし、彼女を驚かせたのは、それではなかった。どう見ても粗野な一兵士の言い放った言葉だった。
「なんだ、おめえ、人間じゃないか!? こんなところで何をしてるんだ。おい、ピエール、この方を中尉殿のところへつれていけ」
「やめて! 離して!!!」
「あおい!」
「ぁぁあっぁあ!?」
身体が激しく揺さぶられた。それは人間業とは思えなかった。何か巨大な力で魂ごと二つに切り裂かれるような気がした。
しかし、よく見てみれば、赤木啓子であることがわかった。
「け、啓子ちゃん・・・ぅうあう!?
「あおい!?」
「ァァゥアァウ・・・・」
弓なりになって股間を押さえるあおい。
ほぼ、無意識のうちにその姿勢を取ったのは、下半身に隠された秘密を親友から隠すためだ。しかし、あおいのそんな有様は、見る人にその深刻さをアピールするだけだった。
しかも、啓子は普段の冷静さを完全に失っている。
「せ、先生、救急車を呼んで下さい!」
いつになく、動揺と混乱の二重奏を鳴らす啓子。教師は、そのようすにあっけにとられたのか、すぐに対応できなかった。
「だ、大丈夫です!! ウ・ウ・ウ・ウ」
あおいは必死に訴えた。そんなことをされたらたまらない。下半身の恥ずかしい秘密が露見してしまう。
辺りを見回すと、白いカーテンが見えた。ここが看護室であることがわかった。どうやら、気を失っている間に連れてこられたようだ。
――――まさか、見られてるってことは!?
あおいは動揺を隠せなかったが、周囲のようすを鑑みてそんなことはないらしい。ふいに、親友の苛立つ声が響く。
「看護室に、校医と看護婦がいないってどういうことですか?」
その声は、逆立っていて、今にも周囲に殴りかかりそうだ。
「どうしたんですか? 校医さんは!?」
慌てて入室してきた両者に文句を言っているのだ。普段、冷静な態度に徹している彼女らしくない。
そんな間にも、股間の異物は幼い性器を刺激しつつ動き回る。
正確には、あおいが動くために、そのように錯覚するのだが、被害妄想と言われても、少女にしてみればそう思わざるを得ない。
身体を砂漠にでも埋めたくなるほどの羞恥に蝕まれている今であっても、そのくらいの判断はできた。灼熱の砂はきっと、この身体から浸みてくる羞恥心を焼き切ってくれるだろう。
「赤木さん、落ち着きなさい!」
担任の声が聞こえる。啓子を冷静に戻そうとする彼女の姿が目に見えるようだ。目を瞑ってもありありとその映像が浮かぶ。
「校医さんが来たから! 落ち着きなさい」
しかし、それは違う世界から響いてくるようだ。あおいや啓子が立っている地面とはあきらかに風の色も、大地の匂いもちがう。
「啓子!!」
しかし、彼女の声だけはしっかりとした実体を持って迫ってくる。
その時、二人は手を繋ぎ合った。
二人とも時間の感覚を完全に失っていたのて、校医が声を掛けたことに気づいていなかった。
「ああ ――」
「赤木さん ―」
担任である阿刀久美子も、そこに控えていた。
「はい・・・・・・」
恐縮するようにあおいから離れる。その手と手との連結が切り離されるとき、二人の間で微かな体温のやりとりがあった。熱伝導の法則から高音から低音へと伝わった。それはもしかしたら、メッセージだったのかもしれない。少なくとも、あおいはそう受け取ったことだろう。
手を握り合った瞬間、啓子は、その手の冷たさに、そして、あおいは、その手の温度に驚愕した。
触れた方は、触れられた方の死を直感してひるんだ。
「あおい!!」
校医や久美子の静止も聞かずに、親友の骸、彼女が勝手にそう思っているだけだが、それに上からまとわりついた。その勢いは、対象に対して飛びかからんばかりか、取って喰おうというほどまでに増していたのである。
「ぁああ、あぐうう!!」
胸郭に、啓子の両手が触れたとたんに、あおいは、小動物的な悲鳴を上げた。それと同時にぴくんと弓なりに、身体を曲げると小さく痙攣した。
「あ、あおい!?」
啓子は、ますます、親友が重病だという思いを強くした。しかし、当の本人はそれどころではなかったのである。命に関わる病気を凌駕する出来事とはどんなことだろう。
「ウウ・ウ・・・ウ・ウウ・ウウ!」
あおいは、シクシクと泣き出した。顔を真っ赤にして、小刻みに震えている。涙が、さくらんぼうに垂れた水滴のように、流れていく。
まるで、友人が手の届かない処に行ってしまったのではないかと思った、この小さな身体から離れて再び ――――。
再び?
啓子は、絶句した。自分の身体からわき上がってくるものに、恐れおののいた。まるで自分でないものに、操られているような、それこそ、何か得体の知れない亡霊に身体に乗りうつられて支配されてしまったのではないか。
今まで、あおいに何処かに行かれたことなど、いちどもない。あるとすれば幼児体験だ。あおいと遊んでいて、彼女の母親が突然、連れて行ってしまう。しかし、それは自分の母親も自分に対して、同じ事をしたのだ。
しかし、そんなことは、何処の世界でもありえる、ありふれた出来事だろう。だが、その時感じたやるせない気持は、今になっても思い出すことがある。淋しいような哀しいような不思議な気分。夕日に溶かされるあおいの背中を見つめていると、もう、永遠に彼女に出会えないような気がする。そればかりか、彼女に出会って互いに紡いできた時間がすべて嘘で、錯覚にすぎないのではないか。
幼児だったので、そこまで具体的に言語化できたわけではないが、意識の周辺でそのような気持を強くしていた。
けれども、おもちゃのシャベルを持っている方の肩を母親に叩かれたとき、あおいと同じように自分の家に帰っていくのである。その時にはもはや、そのようなもやもやは、あさっての方向にうっちゃってしまっているのだが。
あおいは、死んだサバのように冷たい腹を見せている。先ほどまで燃えていた炎は、いつしか消え去って、兵ものどもが夢の後のような跡のような、無常観だけが死後の魂のように残存していた。
その中では、啓子が想像できない戦場が展開していたのである。しかし、部屋の外からは、戦場の火を再び灯すような人物が足音を立てていた。あるいは、不発弾が少女の中に残っていたのかもしれない。
はるかと照美、それにゆららの3人が大人を巻き込んで、青春ドラマに明け暮れている時に、別の空間では人倫と人間性を同時に無視した行いが続いていた。
それも病院という清潔と奉仕の白に塗り込められた場所においてのことである。暗い病室の中では絶対的強者が弱者を思うがままにしていた。まさにしたい放題とはこのことであろう。
白衣の天使は妖女となって幼気な少女に絡みついている。大蛇が小蛇を捕って喰おうという絵画が額に嵌ってひとつの作品になろうとしている。
「ァァ・・・ウウウ、ウ・ウ・ひ、いや・・・・・や、やめて・・・・・ウウ」
全身の血管に針金を突っ込まれるような気がする。少しでも動けば激痛が走る。羞恥心は、自らの身体を縛って虜にしていた。そのために、自ら声を抑えてくれるのだから、陵辱者としてはこれ以上のサービスは考えられないというものだ。
「何が、やめてよ。もっとしてほしいくせに・・・・フフ」
「ウウ・・ウ・ウ、そ、そ、そんな、う、嘘です・・・ウウ・ウ・ウ」
ことここに来ても、少女は、知的で清楚な自分を保つことに固執している。可南子にしてみれば、それが彼女を憎むと同時に可愛らしいとも思うわけである。可南子は、咲きかけた蕾に接吻した。
「アア・あ?! 痛いああああああ!?」
可南子は自らの指を少女の性器に食い込ませた。海鼠の内臓は看護婦の残酷な指によって、捻られ、握りつぶされた挙げ句に、身体の外に引きずり出されんばかりに引っ張られた。当然、脊椎に鉄芯を押し込められたような激痛が走るのは、言うまでもないことであろう。
さすがに、この時は叫び声を押さえることができなかった。それでも、極力控えようとの努力は見て取れたが。
首筋に光る汗は、小蛇ののたうつ姿を彷彿とさせた。
可南子はそれを見ると残酷に反転した目をさらにもう360度回転させた。サメに襲われた経験はある人はわかるだろうが、彼らが噛みつくとき、その黒い目は白に変色するのである。彼女のさまはそれに酷似している。
「このインラン中学生、まだイくのは早いわよ。ふふふ」
数万の針が絡みついてくるような声が、由加里の肩に響く。少女はそれを地獄からの誘いのように受け止めていた。もう、これから自分は人間ではなくなるのだと思った。地獄の囚人になってこの看護婦から一生辱めを受け続ける。それが運命なのだと諦観するまでに至った ――――少なくとも本人はそう思っていた。
しかし、いざ、それが実行されるとなると話は別だった。
おもむろに、性器に硬質な物質が押しつけられたのである。
「ひ、つ、冷たい!!?何?」
悪ガキに摘まれたヒヨコのような声が、少女の口から零れた。しかし、それは硬いだけでなく粘着質な性格を性器で感じることができた。
―――――これは、まさか。
「これが、何かわかるかしら?さっき、由加里ちゃんが触れていたものよ。とても気持ちよさそうにね」
可南子はヒヨコの頭をむんずと摑むと、自分の方に引き寄せた。乱暴な手つきが僧坊筋と胸鎖乳突筋を強(したた)かに痛めた。
口ぶりと打って変わって残酷な仕打ちに、由加里は怖れ戦いた。
もっとも、彼女にとってこの世で最も怖いのは、海崎照美なのだ。彼女に比べたら、可南子など小鳥の啄んだ芋虫にすぎない。
妖女の姿に、冷たく笑う悪魔を思い浮かべて、由加里は戦慄を憶えた。しかし、それは記憶が造り出す一種の幻想にすぎない。今、それどころではない事態が少女に起ころうとしていた。精神だけではなく肉体にも及ぶ、実体としての恐怖が降り懸かろうとしていたのである。
「私の顔を見なさい ―――」
「ウウ・・ウ」
由加里は、記憶の中の悪魔ではなく実体を持った悪魔を目の前にした。三次元を占める実体の前では、記憶や幻想などあさっての方向に飛び去ってしまう。
「これが何か、おわかり?」
「ウウ・ウ・・ウウ・・ウ?!」
少女は、どす黒くそそり立つ物体に可愛らしい頬を犯されていた。由加里はその正体を知っていた。何の雛形なのか過去の記憶を訪ねなくても諳(そら)んじることができた。
その理由は知らなかった。思い出したくもなかった、はるかに読むことを強要された書籍類のことなどは。
「ウウ・ウウ・・ウ・ウ・ウウ!?」
「どうしたの? 由加里ちゃんはこれが何なのか知っているのね」
由加里が水を浴びたように、泣き続けるのは可南子が怖いせいではない。自分が、それを知っていることが悔しかったのだ。普通の中学生の女の子だったら、そのような知識があるはずがない。そう思ったのだ。
可南子が示したのは、ペニスの雛形である。しかも、双頭である。読書の知識から、それが女性同性愛用の道具であることはすぐに知れた。
―――まさか。
すぐに、自分が悟った事実を打ち消そうとした。そんなことはあり得ないはずだった。いや、あってはならないはずだった。しかし、目の前に提示された現実は、少女にある事実の訪れを突きつけたのである。
可南子の娘である、かなんに強要されたレズ行為とは違う。未体験ながらも、これから可南子にされようとしていることが、単なるマネゴトと一線を画すことを知性の何処かで思い知らされたのである。
可南子は、由加里がもはや人語をしゃべれる状態ではないことを悟っていた。
「じゃ、もはや、前フリも解説もいらないわネ!?」
少女が自分の魔力によって身動きすらできなくなっていることを知った。潮時だと感じた。だから準備を始める。
自分の膝の上で固まっている少女を少しどかすと、双頭ペニスの一方を自らの股間に埋め始めた。 驚くことに、少女が知らないうちに、彼女は下着を脱いでいた。暗闇なので色や形態は、まったく判別できない。
可南子が出す音は、とても普通の人間の声には思えなかった。犬や猫などの哺乳動物のそれでさえない。昆虫や節足類が出す、一種、機械音に酷似した摩擦音だった。無機質な音は、その出し主の冷酷さや無神経さをあますところなく表していた。
作り物にしか見えない笑いを浮かべて妖女は言った。
「ううウウウ・・・ふう・・・ふふ、準備ができたわよ」
「じゅ、準備って・・・・・」
こと、ここに至っても、視線を反らした由加里は自分が普通の女の子であろうとした。
由加里が大事なものを失おうとしていたとき、鈴木ゆららは人生において大事な宝石をその手に乗せようとしていた。
少女は、車窓の外を夢見る心地で見つめていた。流れる電飾のラインは、イメージの中で培ったパリの夜のようで、とても現実には思えなかった。
照美やはるかと言ったクラスでも憧れの人たちと親しく会話をし、このような処にまで連れて行ってもらった。
それだけではなく ―――――。
雲の上の人間だと思っていた、今でも思っているが、そのアスリートに出会い、信じられない場所にまで足を踏み入れた。例えるならば、封建時代の農奴が貴族の城に招待されるようなものである。 当時の庶民にとって、そのような場所には精神的な防壁がオーラのように取り巻いていたにちがいないのだ。
きっと、一歩、踏み入れたとたんに雷を落とされたような衝撃を受けたかもしれない。
ゆららは、そんな思いだった。
テニスの後は、食事に連れ行ってもらったのだが、その豪華さはさることながら、西沢あゆみが支払った金額に驚いたのである。カードを使ったのだが、そのときにレジ打ちの女性の口から出てきた数字に我が耳を疑った。
――――42000円になります。
「そう」
あゆみのいかにも当たり前のような受け答えにも度肝を抜かれた。カードを受け取る手の動きは、まるで町中で配っているティッシュを受け取るように見えた。
当然、店外に出たあとであゆみに言った。
「あの ―」
もっとも、それしか言葉にできなかったが。
「口に合ったかしら? え? いいのよ、出会いのしるしってことでね」
「そんな、私が困ります、母が ――――」
そう言いかけて、自分の家にそのような金額をしはらう余裕がないことがおもい出された。
「子供は大人を食い物にして育つものよ、ふふ」
「す、すいません、ありがとうございました」
あゆみは指で少女の額を撫でた。そして、背後を振り向くと声色を変えた。
「おい、はるか、お前は感謝の言葉もないのか」
「へへん、どうせ、親分肌を見せたいんでしょう?」
悪びれるでもなくはるかは返した。まるでラーメンをおごってもらったごとくだ。しかし、次の瞬間には態度を変えていた。照美に視線を移したのを確認すると、ゆららの耳元に囁いた。
「この人、こういうのが好きなんだよ。気にすることない」
自分の境遇を気遣ってくれている。ゆららは心の中が温まるのを感じた。しかし、気が付くと、鉱毒に侵された農地のように、穴を掘れば掘るほど惨めな気持が臭気を発するのだった。だが、それは同時に底のない自己嫌悪を導くことになる。まさに無間地獄とはこのことだった。
「・・・・・・・・・・・・・」
はるかは、そんなゆららにかける言葉をもはや持ち合わせていなかった。ここで何を言っても自己弁護か軽い同情論に陥ることを知っていたのだ。
ただ、寄り添うことだけがゆららに対する友情の証だった。
車は、夜の闇を縫ってネオンサインを引き裂く。カーブを切るたびに、それらは赤や黄、そして、青の点滅を促し、さながらオモチャ箱をひっくり返したように見えた。自然と、それは喧噪とでも言うべき音を生じせしめ、視覚に訴える騒音と合わせて、まる空襲のように映る。
街を行き交う人たちは、どれを見てもかまびすしく、忙しいように見えた。その有様は何時か映像で見た焼夷弾から逃げまどう住民にそっくりだった。
そして、その中に、自身も含まれているのだ。
今、塾帰りらしい少女が、車に衝突されかけた。けたたましい警告音にさらなるダメージを受けている。肩を狭めて、事態をやり過ごそうとしている姿は、まさにいじめらられていたゆらら本人のそのものではなかったか。
今度は別の車に警告音をぶつけられた少女は、畳み掛けられるように、粗野な運転手に怒鳴りつけられた。
「何をやっているんだ、あの車!」
背後から警告音をぶっ放そうとして、思い留めた。さらに少女が怯えるだけだと思ったのだ。
ゆららは、別の思いが過ぎるのを苦々しく思った。西宮由加里のことだ。照美やはるかが、自分に対して、信じられないほどに優しく接してくれる。一方、彼女に対しては、地獄の悪魔になってしまう。これはどういうことだろう。
―――あの人は自業自得なのよ!
ゆららは、その言葉が自分を納得させられないことを知っていた。しかし、あえてそう思うことによって、自分を誤魔化そうとした。
そうしなければ自分が保たない。
もしも、いじめに荷担したならば、自分もかつて、自分をいじめた人たちと同列になってしまうからだ。それは決して認められないことだからだ。
漫然としない気持で、夜の街を見遣るゆららである。しかし、照美の美貌が視界に入ったとき、彼女に伝えるべき事を思いだして、そこに電気を通らせたように、髪の毛の一部を針のように尖らせた。
啓三は、ただ黙って机の上にあるものを見つめていた。それは彼の家族のポートレイトだった。自分と妻である夏枝、そして、二人の前に長女である薫子が立っている。そして、その前にはお客用の豪奢な椅子が置かれ ――――。
その上には ―――――。
次期城主の視線は写真の中の聖域に注がれていた。それは、現在の彼がけっして見てはならないものだった。何故ならば、彼じしんの精神の健康を非常に害する危険を内包していたからである。 しかし、何十キロも走ったランナーが水を求めるように、愛娘の顔を探しあてていた。
「ルリ子!!」
根の国からわき起こってくるような嗚咽とともに、彼は愛娘の名前を呼んだ。写真に映っている元気な姿は、もうこの世の何処にも存在しない。変わり果てた姿になって骨壺に入っている。
啓三は、嗚咽を抑えられなかった。
ソテツの群生が作る影に、まるで生ごみのように捨てられた我が娘。その姿を啓三は死んでも忘れられないだろう。
それはあのパーティの日だった。
犯人は簡単に逮捕された。
佐石土雄
啓三は、この世が終わろうともその名前を忘れないだろう。
よもやあるまいと思うが、死刑以外は認められなかった。もしも国が殺してくれないなら、我が手で同じ目に合わせてやろう! そのためには裁判所に赴こう! そう誓ったはずだった。
しかし、その憎き犯人は、まもなく留置場で首を吊って自死に至った。この手で殺すはずだったのに!!
行き場を失った怒りは、今の今まで啓三の中で蜷局を巻いている。やがて、その毒牙を食い込ませる敵手を求めて、いつか鎌首を擡げるだろう。それを佐石のために温存していたのに。
いや、その目標は手短にいた。なんと、彼がこの世でもっとも愛しているはずの ―――女性だった。
――――あの時、夏枝はいったい、何をしていたのだ!!
「もしや、ルリ子が殺されたとき、あいつら、抱き合っていたんじゃ!!」
「・・・・・啓三?」
春実が見た親友の顔は、かつて温厚で誰に愛される青年医師のそれではなかった。復讐の悪鬼と化した。
「ありえるかもね ――――」
ルリ子の死亡時刻を考えてみれば、合ってはならないピースが嵌ってしまう。
春実は、愛らしいルリ子がむさ苦しい浮浪者に陵辱され絞め殺される場面を思い浮かべた。そのとき、あの二人は不倫の愛に溺れていたのだ。
常に冷静沈着な性格がウリの春実でさえ、その顔を直視することはできなかった。リノリウムの床をみつめながら、自分が火を扱ってはいけない場所でマッチを擦ったのだと危惧した。
しかし、もう後戻りはできない。もう、行けるところまで突き進むまでだ。
「啓三、理解してくれたのね」
「ああ、善は急げだ! 安斎くん!」
啓三は、秘書が入ってくる前に叫んでいた。
「これからのオペはキャンセルだ。他の先生を当たってくれ ―――」
「啓三!!」
メラメラと燃え上がる炎を目の前に、春実は、何も出来ずに立ち尽くしていた。改めて、もう引き返せないのだと実感した。さきほど思い浮かべた地獄の映像を、思い出すことにした。そうしなければ、とても立っていられないと思ったからだ。
「辻口先生!!」
秘書も、自分が何も言い出せないことを理解していた。温厚な上司の変容をただ絶望的な視線で見つめていた。そして、悲しみと怒りのない交ぜになった視線をその犯人に向けることでしか、自分を納得させられなかった。
しかし、春実のほうではそんなことを忖度している余裕はない。
「私の車で ―――」
「ああ」
白衣も脱がずに廊下へと駆け出す。
「先生!」
甲高い男の声は谷崎のものだった。用を足していたのである。
「谷崎くん、車を回して、愛児院に向かうわよ」
彼も、啓三のただならぬようすに肝を冷やしたようだ。口の中に異物を突っ込まれたような顔をすると、上司と青年医師を車に先導する羽目になった。
谷崎は背後を見るのを恐れた。まともに医師の顔を見る勇気が自分にあるとは思えなかった。上司の顔を伺ってみたかったら、そうしたならば、悪鬼の顔も視界に入ってしまう。気弱な青年としてはそれは避けたかったのである。
リノリウムの床は、どんな気分で靴音を3人に返してやったのだろう。どんな気分で見送ったのだろう。病院を象徴するような清潔の白は、ただ、沈黙を守っていた。
さて、車に滑り込んだとき、啓三はまだ白衣を着ていた。
「啓三、白衣・・・・・」
「ああ ――」
そんなことはどうでもいいとばかりに、白衣を車の背後に押し込む。任務を与えられなかったスピーカーは、文句を言いいたげにうなった。男の体臭が染み込んだ白衣など押しつけられたら迷惑だ。そう言わんばかりに見えた。
エンジンは、そんな友人の不平など何処吹く風とばかりに、凶暴なうなり声をあげる。啓三は、それが犯人である佐石のいまわの際の声に思えた。
実は、彼が死亡したとき、警察から連絡を受けていた。
「実は、遺書を残しているのですが、それが辻口さん宛でして ―――」
「結構です!!」
ただ、その一言を以て、啓三は受話器を乱暴な手つきで投げづけた。
何て、世間とは無神経なのだろうと思った。被害者の遺族がそんなものを知りたいなどと、誰が思うものか。ひたすら、思考はマイナスの方向に下った挙げ句、どうして、自分の娘は死んでしまったのに、他人の子供たちは呑気に笑っているのだろうなどと思うようになっていた。
病院に産婦人科から聞こえてくる声や音。新生児の産声や、親たちの歓声。それらを聞く度に耳を塞ぎたくなった。妊婦を路上に放り出して、産婦人科を閉めたいとまで思った。たまに、流産や奇形児の出産を聞くと胸がすく思いだった。しかし、とうぜんのことながら、次の瞬間には全身を切り裂かれるような罪悪感に苛まれるのだが・・。
今、それらをすべて解消してくれそうな気がした。
愛児院に収容されているという佐石の娘。その子は二重の意味で啓三を救ってくれそうな気がした。
自分を裏切った夏枝に対する復讐。
そして、失ったルリ子の変わりとして。
しかし、後者には問題があった。自分がその子を目の当たりにして、手を出さないという自信がなかった。少女が足にまとわりついてきたとたんに、その首を絞めてしまわないか。その衝動を自分で抑えきる自信がなかった。
そんなことを考えながらも、車は山の中に入っていく。その愛児院の名前は啓三の耳に親しんでいるとはいえ、じっさいにその場所に行ったことはなかった。その辺の雑務は産婦人科以下、専門に行うセクターがあるし、啓三はそれに口を出したこともなかった。彼の父親である現院長などは、知人を会して容姿縁組みの世話をしたことがあるが、よもや、自分がそれにかかわるとは思わなかった。
彼と夏枝には長女がいる上に、次女である、いや、だったルリ子も生まれて間もなかったからだ。
それが ――――。
啓三は、考えまいと思った。いま、車は急勾配な坂にぶつかったところだ。急に重力が身体にかかって、空が見えた。雲が太陽を隠そうと企んでいるところである。その木漏れ日が地上に差し込むと、それが天なる神から光が自分たちに分け与えられているようにも思えた。
それは、何か意味があることなのだろうか。もしかして、預言ということはこういうことだろうか、あの光の帯を言語に変換する方法がこの世にはあるとでも言うのか。
苦悩する啓三は、愛児院が視野に入るまで一言も言葉を発しなかった。
「そうだ、あの愛児院にはうちの産婦人科医が常駐しているはずだ」
「あんた、自分の病院のことなのに、そんなことも知らないの?」
友人が落ち着いたのを確認するように言葉を紡ぐ。
「産婦人科のことは親父に任せているからな ――」
ドアを開けながら山の気を吸い込む。とても呑気な場所だ。啓三は思った。ここ数日の苦悶が嘘のようである。もしかして、すべて嘘なのではないか。性格の悪い悪魔が魔法でもかけて、自分をたばかったのではないか。
青年医師の中に多少なりとも残っていた希望の光か、あるいは妄執とでも表現すべきか、何れにしても、そのような部分が彼に一瞬の白昼夢を提供したことは事実である。
さて、その建物は啓三を待ちかまえるように建っていた。
「キリスト教関係だったのか」
「そんなことも知らなかったの?」
教会とキリスト教を象徴する記号を指さしながら言う啓三。今度は、あからさまな蔑視を向けながら、言葉の塊をボール代わりにして、啓三に投げつける。
「そんなことはどうでもいい。もう連絡はしてあるのか、春実」
「そうよ、その辺、抜かりはないわ。もう手配してあるから、父親のつてを利用してね」
「この院長とかかわりがあるのか」
「そうらしいわ」
ハイヒールの音も軽やかに小石を飛ばす。先導する春実に駆け寄る啓三。運転主、件、秘書である谷崎は神妙な面持ちで背後に控えている。
3人が通されたのは教会の説教部屋だった。キリスト教に関係ない者にとっては、単に教室を変形させたようにしか思えないだろう。あえて、両者の違いを指摘するならば、机がないということだろうか。
「ああ、お嬢さんかぁ、赤ちゃんのことははがきで知ったよ。その後どうかな? お父上は引退されたと聞いたが ―――」
「ええ、健在ですわ。それに父は、第二の人生に邁進中ですわ。白眉さん」
春実は、隣に座っている院長を気遣いながら言う。ちなみに、啓三は春実の横に座っている。
「院長先生は、神父様と兼職なさっておられるのですか」
「そうじゃよ。イヤ、今はもう医療のほうには携わってはいないが、医師免許は健在じゃな。別に破いてすてる必要はないから、そのままにしておる」
「はぁ ―――」
別にキリスト教徒ではないが、宗教的な権威には総じて弱い啓三は、このような人物と出会うと思わず恐縮してしまう。
「ああ、坊や、君も座りなさい」
「はぁ」
豆鉄砲を喰らった鳩のような顔で、坊や呼ばわりされた谷崎は啓三の横に座る。これで四人が並んだわけだ。
教会の窓を装飾するステンドグラスの主題は、『ドラゴンを退治する大天使ミカエル』である。この手の内装にはありがちな内容だが、愛児院という舞台には相応しくないような気がして、春実は笑いたくなった。啓三は、ただ畏れ入るだけでそんなことに思考が赴くはずはない。
春実が口を開いた。
「白眉さん、赤ちゃんの件ですか」
「聞いているよ、そちらの旦那さんかい。引き取りたいと言われるのは。」
「はい、院長先生」
畏まって啓三は答える。自分の名前からすべてを察しているだろう。それは覚悟の上である。
「どうしても引き取りたいと、彼女から伝え聞いておるが、このことを奥さんは知っておられるのだろうね」
念を押すように言う。頭を見れば頭髪はほとんど残されていない。毛根はすでにその役割を完全に忘れ、数本の白髪が、枯れ木を思わせる。
しかし、口調はしっかりしている。この話題に入ってから、まるで脂の乗り切った30代に戻ったようだ。その肌は湿度を増し、目の色も黒曜石のように光り出している。
「では、改めて問うがが、どうして彼女を引き取りたいと思われたのか」
だが、啓三にしては寝耳に水だった。春実は、もう、ここまで話を進めていたというのか。自分が言い出したなどと。しかし、老翁の勢いは、啓三をして釈明せしめる意図を途絶させた。
「・・・・・・・・・・相手の、罪を許すのがキリスト教だと聞きます。私はクリスティアンではありませんが、 その教えには首肯せざるをえません。しかし、犯人が死亡したいま、私には許す対象がいないのです」
啓三は、驚いていた。こんなに見事にいい訳が言の葉になるとは思ってもみなかった。まるで何者かが、自分の口を借りて捲し立てているかのように思えた。
「それで、その変わりにあの子をと?」
「え?」
老翁が指さした先には。
ドアが開く音とともに、出現した、それは。
春実は声も出ないようだった。
まるで何者かが予め書いた舞台のように、事態が進んでいく。啓三と春実は、それに巻き込まれていくことに驚きとともに畏怖を感じていた。
そこには白衣の男性がいた。彼は、ひとりの乳幼児を抱いていた。まるで、赤ん坊のイエスを抱くマリアが出現したのかと、ここにいる全員に思わせた。
何よりも、そのタイミングの良さが皆を圧倒させた。真っ白な光がこの乳幼児から放たれていた。啓三の頭の中は、もはや、その光にすべての感情が帳消しにされてしまった。怒りも、恨みも、悲しみも、そして、愛すら。それらすべてが光に溶かされ、いや、光と同化してしまった。
啓三は、震える手を光の中心に据えた。
それから、12年が経った。
海の見える高台にその家は建っている。瀟洒な3階建ての建物は、よく教会と間違えられる。しかし、じっと見れば十字架がないことを知って、はじめて、それが普通の住宅だと認識する。もっとも、どう見ても普通のサラリーマンが一生かかっても建てられる家には見えない。
それが当然だと誰の口にも言わせる事情がある。
辻口啓三、言わずと知れた辻口医院の若き院長。長崎城主である。
今、その豪華な玄関に口が開いた。
「言ってきまあす!お母さま! お父さま!」
結婚式の花嫁が両親に告げるような声が朝の海に響く。しかし、その後に通じたのは、お通夜の挨拶だった。
「言ってきます」
「薫子、何ですか?朝からそんなに元気がないことで、どうします!?」
「陽子と一緒にしないでくれるかな?」
走り寄ってきた女性は、目の前で我が子がトラックにはねられた母親のような顔をしている。薫子と呼ばれた少女は整った顔をくすませて言う。
「お母さま、大丈夫ですよ、薫子は元気です」
「お姉さまは朝がお悪いですからね ――」
その笑顔はまるで太陽だ。薫子はクラクラする頭を掻いた。
「ねえ、聞くけど ―――」
「何ですか?」
さらに光を増す太陽と、相当に大きいはずの自宅が人の頭ほどになっている ―――にもかかわらず、母親の、夏枝の送迎の声が響いている。
それらのせいで、射殺処分を覚悟の上で、戦闘忌避を軍隊に申し込みたいところだったが、あえて、武器を手にすることにした。
「陽子、今って開明時代だったかしら?」
「何を言っておられるンですか? お姉さま、今の年号は大礼ですわ」
きょとんとした顔で、妹は答える。姉が言った年号は、自分たちが産まれる前の、前の、年号だったはずだ。
「もういい、先を急ごう」
「お姉さま、どうなさったのですか?」
姉に抱きつかんばかりの勢いで追いすがってくる妹から逃げられるはずはなかったのだ。
気が付くと、彼女の右手は太陽によって喰われていた。
一方、父親である啓三は娘たちの姿を微笑みながら眺めていた。きょうび、手を繋ぎながら登校する姉妹などお目に掛かれるものではない。
――開明時代か?
啓三は車のキーを弄びながら海を吸った。
その上には ―――――。
次期城主の視線は写真の中の聖域に注がれていた。それは、現在の彼がけっして見てはならないものだった。何故ならば、彼じしんの精神の健康を非常に害する危険を内包していたからである。 しかし、何十キロも走ったランナーが水を求めるように、愛娘の顔を探しあてていた。
「ルリ子!!」
根の国からわき起こってくるような嗚咽とともに、彼は愛娘の名前を呼んだ。写真に映っている元気な姿は、もうこの世の何処にも存在しない。変わり果てた姿になって骨壺に入っている。
啓三は、嗚咽を抑えられなかった。
ソテツの群生が作る影に、まるで生ごみのように捨てられた我が娘。その姿を啓三は死んでも忘れられないだろう。
それはあのパーティの日だった。
犯人は簡単に逮捕された。
佐石土雄
啓三は、この世が終わろうともその名前を忘れないだろう。
よもやあるまいと思うが、死刑以外は認められなかった。もしも国が殺してくれないなら、我が手で同じ目に合わせてやろう! そのためには裁判所に赴こう! そう誓ったはずだった。
しかし、その憎き犯人は、まもなく留置場で首を吊って自死に至った。この手で殺すはずだったのに!!
行き場を失った怒りは、今の今まで啓三の中で蜷局を巻いている。やがて、その毒牙を食い込ませる敵手を求めて、いつか鎌首を擡げるだろう。それを佐石のために温存していたのに。
いや、その目標は手短にいた。なんと、彼がこの世でもっとも愛しているはずの ―――女性だった。
――――あの時、夏枝はいったい、何をしていたのだ!!
「もしや、ルリ子が殺されたとき、あいつら、抱き合っていたんじゃ!!」
「・・・・・啓三?」
春実が見た親友の顔は、かつて温厚で誰に愛される青年医師のそれではなかった。復讐の悪鬼と化した。
「ありえるかもね ――――」
ルリ子の死亡時刻を考えてみれば、合ってはならないピースが嵌ってしまう。
春実は、愛らしいルリ子がむさ苦しい浮浪者に陵辱され絞め殺される場面を思い浮かべた。そのとき、あの二人は不倫の愛に溺れていたのだ。
常に冷静沈着な性格がウリの春実でさえ、その顔を直視することはできなかった。リノリウムの床をみつめながら、自分が火を扱ってはいけない場所でマッチを擦ったのだと危惧した。
しかし、もう後戻りはできない。もう、行けるところまで突き進むまでだ。
「啓三、理解してくれたのね」
「ああ、善は急げだ! 安斎くん!」
啓三は、秘書が入ってくる前に叫んでいた。
「これからのオペはキャンセルだ。他の先生を当たってくれ ―――」
「啓三!!」
メラメラと燃え上がる炎を目の前に、春実は、何も出来ずに立ち尽くしていた。改めて、もう引き返せないのだと実感した。さきほど思い浮かべた地獄の映像を、思い出すことにした。そうしなければ、とても立っていられないと思ったからだ。
「辻口先生!!」
秘書も、自分が何も言い出せないことを理解していた。温厚な上司の変容をただ絶望的な視線で見つめていた。そして、悲しみと怒りのない交ぜになった視線をその犯人に向けることでしか、自分を納得させられなかった。
しかし、春実のほうではそんなことを忖度している余裕はない。
「私の車で ―――」
「ああ」
白衣も脱がずに廊下へと駆け出す。
「先生!」
甲高い男の声は谷崎のものだった。用を足していたのである。
「谷崎くん、車を回して、愛児院に向かうわよ」
彼も、啓三のただならぬようすに肝を冷やしたようだ。口の中に異物を突っ込まれたような顔をすると、上司と青年医師を車に先導する羽目になった。
谷崎は背後を見るのを恐れた。まともに医師の顔を見る勇気が自分にあるとは思えなかった。上司の顔を伺ってみたかったら、そうしたならば、悪鬼の顔も視界に入ってしまう。気弱な青年としてはそれは避けたかったのである。
リノリウムの床は、どんな気分で靴音を3人に返してやったのだろう。どんな気分で見送ったのだろう。病院を象徴するような清潔の白は、ただ、沈黙を守っていた。
さて、車に滑り込んだとき、啓三はまだ白衣を着ていた。
「啓三、白衣・・・・・」
「ああ ――」
そんなことはどうでもいいとばかりに、白衣を車の背後に押し込む。任務を与えられなかったスピーカーは、文句を言いいたげにうなった。男の体臭が染み込んだ白衣など押しつけられたら迷惑だ。そう言わんばかりに見えた。
エンジンは、そんな友人の不平など何処吹く風とばかりに、凶暴なうなり声をあげる。啓三は、それが犯人である佐石のいまわの際の声に思えた。
実は、彼が死亡したとき、警察から連絡を受けていた。
「実は、遺書を残しているのですが、それが辻口さん宛でして ―――」
「結構です!!」
ただ、その一言を以て、啓三は受話器を乱暴な手つきで投げづけた。
何て、世間とは無神経なのだろうと思った。被害者の遺族がそんなものを知りたいなどと、誰が思うものか。ひたすら、思考はマイナスの方向に下った挙げ句、どうして、自分の娘は死んでしまったのに、他人の子供たちは呑気に笑っているのだろうなどと思うようになっていた。
病院に産婦人科から聞こえてくる声や音。新生児の産声や、親たちの歓声。それらを聞く度に耳を塞ぎたくなった。妊婦を路上に放り出して、産婦人科を閉めたいとまで思った。たまに、流産や奇形児の出産を聞くと胸がすく思いだった。しかし、とうぜんのことながら、次の瞬間には全身を切り裂かれるような罪悪感に苛まれるのだが・・。
今、それらをすべて解消してくれそうな気がした。
愛児院に収容されているという佐石の娘。その子は二重の意味で啓三を救ってくれそうな気がした。
自分を裏切った夏枝に対する復讐。
そして、失ったルリ子の変わりとして。
しかし、後者には問題があった。自分がその子を目の当たりにして、手を出さないという自信がなかった。少女が足にまとわりついてきたとたんに、その首を絞めてしまわないか。その衝動を自分で抑えきる自信がなかった。
そんなことを考えながらも、車は山の中に入っていく。その愛児院の名前は啓三の耳に親しんでいるとはいえ、じっさいにその場所に行ったことはなかった。その辺の雑務は産婦人科以下、専門に行うセクターがあるし、啓三はそれに口を出したこともなかった。彼の父親である現院長などは、知人を会して容姿縁組みの世話をしたことがあるが、よもや、自分がそれにかかわるとは思わなかった。
彼と夏枝には長女がいる上に、次女である、いや、だったルリ子も生まれて間もなかったからだ。
それが ――――。
啓三は、考えまいと思った。いま、車は急勾配な坂にぶつかったところだ。急に重力が身体にかかって、空が見えた。雲が太陽を隠そうと企んでいるところである。その木漏れ日が地上に差し込むと、それが天なる神から光が自分たちに分け与えられているようにも思えた。
それは、何か意味があることなのだろうか。もしかして、預言ということはこういうことだろうか、あの光の帯を言語に変換する方法がこの世にはあるとでも言うのか。
苦悩する啓三は、愛児院が視野に入るまで一言も言葉を発しなかった。
「そうだ、あの愛児院にはうちの産婦人科医が常駐しているはずだ」
「あんた、自分の病院のことなのに、そんなことも知らないの?」
友人が落ち着いたのを確認するように言葉を紡ぐ。
「産婦人科のことは親父に任せているからな ――」
ドアを開けながら山の気を吸い込む。とても呑気な場所だ。啓三は思った。ここ数日の苦悶が嘘のようである。もしかして、すべて嘘なのではないか。性格の悪い悪魔が魔法でもかけて、自分をたばかったのではないか。
青年医師の中に多少なりとも残っていた希望の光か、あるいは妄執とでも表現すべきか、何れにしても、そのような部分が彼に一瞬の白昼夢を提供したことは事実である。
さて、その建物は啓三を待ちかまえるように建っていた。
「キリスト教関係だったのか」
「そんなことも知らなかったの?」
教会とキリスト教を象徴する記号を指さしながら言う啓三。今度は、あからさまな蔑視を向けながら、言葉の塊をボール代わりにして、啓三に投げつける。
「そんなことはどうでもいい。もう連絡はしてあるのか、春実」
「そうよ、その辺、抜かりはないわ。もう手配してあるから、父親のつてを利用してね」
「この院長とかかわりがあるのか」
「そうらしいわ」
ハイヒールの音も軽やかに小石を飛ばす。先導する春実に駆け寄る啓三。運転主、件、秘書である谷崎は神妙な面持ちで背後に控えている。
3人が通されたのは教会の説教部屋だった。キリスト教に関係ない者にとっては、単に教室を変形させたようにしか思えないだろう。あえて、両者の違いを指摘するならば、机がないということだろうか。
「ああ、お嬢さんかぁ、赤ちゃんのことははがきで知ったよ。その後どうかな? お父上は引退されたと聞いたが ―――」
「ええ、健在ですわ。それに父は、第二の人生に邁進中ですわ。白眉さん」
春実は、隣に座っている院長を気遣いながら言う。ちなみに、啓三は春実の横に座っている。
「院長先生は、神父様と兼職なさっておられるのですか」
「そうじゃよ。イヤ、今はもう医療のほうには携わってはいないが、医師免許は健在じゃな。別に破いてすてる必要はないから、そのままにしておる」
「はぁ ―――」
別にキリスト教徒ではないが、宗教的な権威には総じて弱い啓三は、このような人物と出会うと思わず恐縮してしまう。
「ああ、坊や、君も座りなさい」
「はぁ」
豆鉄砲を喰らった鳩のような顔で、坊や呼ばわりされた谷崎は啓三の横に座る。これで四人が並んだわけだ。
教会の窓を装飾するステンドグラスの主題は、『ドラゴンを退治する大天使ミカエル』である。この手の内装にはありがちな内容だが、愛児院という舞台には相応しくないような気がして、春実は笑いたくなった。啓三は、ただ畏れ入るだけでそんなことに思考が赴くはずはない。
春実が口を開いた。
「白眉さん、赤ちゃんの件ですか」
「聞いているよ、そちらの旦那さんかい。引き取りたいと言われるのは。」
「はい、院長先生」
畏まって啓三は答える。自分の名前からすべてを察しているだろう。それは覚悟の上である。
「どうしても引き取りたいと、彼女から伝え聞いておるが、このことを奥さんは知っておられるのだろうね」
念を押すように言う。頭を見れば頭髪はほとんど残されていない。毛根はすでにその役割を完全に忘れ、数本の白髪が、枯れ木を思わせる。
しかし、口調はしっかりしている。この話題に入ってから、まるで脂の乗り切った30代に戻ったようだ。その肌は湿度を増し、目の色も黒曜石のように光り出している。
「では、改めて問うがが、どうして彼女を引き取りたいと思われたのか」
だが、啓三にしては寝耳に水だった。春実は、もう、ここまで話を進めていたというのか。自分が言い出したなどと。しかし、老翁の勢いは、啓三をして釈明せしめる意図を途絶させた。
「・・・・・・・・・・相手の、罪を許すのがキリスト教だと聞きます。私はクリスティアンではありませんが、 その教えには首肯せざるをえません。しかし、犯人が死亡したいま、私には許す対象がいないのです」
啓三は、驚いていた。こんなに見事にいい訳が言の葉になるとは思ってもみなかった。まるで何者かが、自分の口を借りて捲し立てているかのように思えた。
「それで、その変わりにあの子をと?」
「え?」
老翁が指さした先には。
ドアが開く音とともに、出現した、それは。
春実は声も出ないようだった。
まるで何者かが予め書いた舞台のように、事態が進んでいく。啓三と春実は、それに巻き込まれていくことに驚きとともに畏怖を感じていた。
そこには白衣の男性がいた。彼は、ひとりの乳幼児を抱いていた。まるで、赤ん坊のイエスを抱くマリアが出現したのかと、ここにいる全員に思わせた。
何よりも、そのタイミングの良さが皆を圧倒させた。真っ白な光がこの乳幼児から放たれていた。啓三の頭の中は、もはや、その光にすべての感情が帳消しにされてしまった。怒りも、恨みも、悲しみも、そして、愛すら。それらすべてが光に溶かされ、いや、光と同化してしまった。
啓三は、震える手を光の中心に据えた。
それから、12年が経った。
海の見える高台にその家は建っている。瀟洒な3階建ての建物は、よく教会と間違えられる。しかし、じっと見れば十字架がないことを知って、はじめて、それが普通の住宅だと認識する。もっとも、どう見ても普通のサラリーマンが一生かかっても建てられる家には見えない。
それが当然だと誰の口にも言わせる事情がある。
辻口啓三、言わずと知れた辻口医院の若き院長。長崎城主である。
今、その豪華な玄関に口が開いた。
「言ってきまあす!お母さま! お父さま!」
結婚式の花嫁が両親に告げるような声が朝の海に響く。しかし、その後に通じたのは、お通夜の挨拶だった。
「言ってきます」
「薫子、何ですか?朝からそんなに元気がないことで、どうします!?」
「陽子と一緒にしないでくれるかな?」
走り寄ってきた女性は、目の前で我が子がトラックにはねられた母親のような顔をしている。薫子と呼ばれた少女は整った顔をくすませて言う。
「お母さま、大丈夫ですよ、薫子は元気です」
「お姉さまは朝がお悪いですからね ――」
その笑顔はまるで太陽だ。薫子はクラクラする頭を掻いた。
「ねえ、聞くけど ―――」
「何ですか?」
さらに光を増す太陽と、相当に大きいはずの自宅が人の頭ほどになっている ―――にもかかわらず、母親の、夏枝の送迎の声が響いている。
それらのせいで、射殺処分を覚悟の上で、戦闘忌避を軍隊に申し込みたいところだったが、あえて、武器を手にすることにした。
「陽子、今って開明時代だったかしら?」
「何を言っておられるンですか? お姉さま、今の年号は大礼ですわ」
きょとんとした顔で、妹は答える。姉が言った年号は、自分たちが産まれる前の、前の、年号だったはずだ。
「もういい、先を急ごう」
「お姉さま、どうなさったのですか?」
姉に抱きつかんばかりの勢いで追いすがってくる妹から逃げられるはずはなかったのだ。
気が付くと、彼女の右手は太陽によって喰われていた。
一方、父親である啓三は娘たちの姿を微笑みながら眺めていた。きょうび、手を繋ぎながら登校する姉妹などお目に掛かれるものではない。
――開明時代か?
啓三は車のキーを弄びながら海を吸った。
教室に戻ったとき、あおいは息も絶え絶えな状態で、多分にクラスメートの同情を買った。少女の真珠色に輝く額には、脂汗のようなものが滲んでいる。霧を吹きかけた高級陶器のようで、反射光の美しさがやけに目立って痛々しい。
啓子にもそれが伝わったと見えて、心配そうに親友の顔を伺っている。
「大丈夫? 早く座ろうよ。それとも保健室に行く?」
あおいにしか見せない顔で言葉を投げかける。事実、二人の間に流れている世界には、第三者が入り込める隙を見いだせなかった。
だから、固唾を呑んで、周囲の児童たちは眺めるしかなかった。ある意味、それは夫婦に似ている。啓子があおいの肩を抱いて、労りながら席に着かせるその仕草は、夫が病床の妻に対して見せる魂に満ちていた。
「ウゥ・ゥ・ゥ・ゥ」
一方、あおいは意識が細(こま)切れになるような官能に襲われながらも、絶え間ない罪悪感に苛まれていた。
――ああ、私はこんな扱いをされる価値なんてないの。
小学生のあおいには、性的な感覚をその意味において理解できるほど知性が発達していない。だが、無意識の領域では、それを完全に識別し分類さえしていたのである。官能が与える麻薬的な感覚に対して、それを率直に快感と受け止める感情と羞恥と受け止める理性。ある意味、機械的な無意識は善悪の判断をしない冷静な視点で、自分を見つめていた。
「ウウ・ウ・ウ・ウ・ウウ」
啓子を含めた周囲に自分を合わすのも一苦労だ。時間に遅れてしまいそうな気がする。いや、既にみんなが手の届かないところに行ってしまったような気がする。もっと似つかわしいたとえを用意するならば、周回遅れのランナーというのが一番適当かもしれない。
いつの間にか、みんなあおいの手のとどかないところに言ってしまった。もう、誰も彼女をまともに相手にしようとしない。自分だけが木製の人形になってしまったかのようだ。
全身が縮んでしまいそうな羞恥心に苛まれて、知らず知らずのうちに肌がピンクに変色していた。鳥肌も立っている。
めくるめく官能に意識を吸い取られてわずかに残った知性で、周囲に目を向けてみる。できることは眼球をわずかに動かすぐらいしかない。
とうぜんのことだが、気が付くと、啓子には自分の席に着いていて、自分には寄り添っていない。教壇には、担任である阿刀久美子が、何やら声を張り上げている。しかし、その意味はまったく頭に入らなかった。
もう、礼は済んでしまったらしい。あやふやな意識で過去をふり返ってみると、「規律、礼」という学校では何十年も恒例となった声が聞こえる。
いっしゅんだけ、あおいは肉体を抜けていた。時間と肉体を超越して、学校という概念そのものを窓の外から眺めているような錯覚に陥った。その焦点の中心には自分がいた。哀れにも震えている少女だった。
本来ならば、楽しくてたまらない空間だったのに、いまや自己嫌悪のタイルに床も壁も埋め尽くされている。たまため天井を眺めてみたら、目に侵入してきたのは同じタイルだった。机やクラスメートたちは、約一名を覗いて単なる記号にしかみえない。もちろん、その一名は赤木啓子である。
―――み、見ないで、啓子ちゃん・・・・・。
あおいは、カタツムリのように意識的に自分で造った殻に閉じこもろうとしていた。しかし、親友の視線を妨げることはできなかった。それは、制服を通過して少女の秘密の部分にまで達しているように思えた。そこには、彼女が何よりも、そして、誰からも護りたい恥ずかしい秘密が隠されている。
―――教室でもこんなことされてるなんて・・・・・・。
有希江の手で股間をむんずと摑まれているような気がする。家で姉にされていることがありありと思い出される。いや、あたかもここが教室ではなくて、自分の家のようなきがする。全裸にされて犬のようによつんばいにされたあおいは、恥ずかしいところを弄られて呻き声を上げているのだ。
姉の笑い声がいま、そこにあるような気がする。
気が付くと、教壇に居座っているのは、久美子でなくて有希江が弁慶のように立ち尽くしていた。
しかし、次の瞬間には、久美子に戻っていた。ちょうど宮沢賢治の詩を板書してふり返ったところだった。
あおいは、それを書き写しながらつくづく思う。
――――ここは、勉強するところなのに・・・・・・・・・・・・・・。
本来ならば、授業とは休み時間をひたすらに待つ時間にすぎなかったのに、それは、本人はおろか担任をふくめたほぼクラスの成員すべてがそれを認識していた。そのあおいの元気がない。思えば、この少女はクラスの太陽だったのだ。らんらんと輝いているときは迷惑なだけだったが、アマテラスの神話のように、いちど、岩戸に籠もってしまうと、その温かさが身にしみて思いだされる。みんな、そうなってはじめて、その価値に気づくのである。
――――あおいちゃん、どうしたのかな?
教師の秋波をかいくぐって、クラスメートたちは、心配そうな視線を贈ってくる。すると、啓子以外のクラスメートもただの記号ではなくなっていく。それは同時に少女の羞恥心を倍増させることにつながる。たまたまその視線のひとつと目があったりすると、顔を真っ赤にして俯くことしかできない。羞恥のためにからだを動かしたりすれば、憎らしい相手がいたずらを始める。股間に埋め込まれた異物が動き始めるのだ。
身体は、異物を外に出そうとするが、恥ずかしい秘密の一部が作動して、それを内部に押し込めようとする。心ならずも少女じしんの努力もあって、阻まれてしまう。
一連の動きは仮想セックスのようだが、さすがに少女はそこまで考えが付かなかった。そもそもセックスというものが想像できない。そういう単語は聞いたことがあるが、少女じしんはまだそれに触れてはいけない年齢だと思っている。有希江もそれを教え込むということはないようだ。
加えて、このとうじのあおいにとって救いだったのは、オナニーという概念が持つ意味すら明確でなかったことだ。それは不幸中の幸いというべき事態だったが、この時の刺激が後になって、それに開眼する契機になったことも事実である。
しかしながら、性器の周囲を弄るとやがて湿り気を帯びること、言うまでもなく、それは小便とは別の液体である。あおいは、全クラスメートの目の前で辱めを受けているような気がした。
冷たい笑いが少女を襲う。それは、かつて、少女を包んだそれとは全く違う、口臭に満ちた冷たい笑いである。多分に、苦笑というスパイスが含まれていながら、それは優しい温度に満ちていた。温泉に浸かったあとで鉄砲水に流されるようなものである。
もしも、下半身の秘密をみんなが知ったら、そのような態度に出ることは火を見るよりも明らかに思えた。ちょうど家庭で起こったことが場所を変えて起こるのだ。
少女が何よりも怖れるのは、赤木啓子の動向である。彼女から見捨てられることは、すなわち、自分の死のように思えた。死というものは、体験したことはないが、もしも、それがあるとすれば、啓子を失うくらいに怖ろしいことだと思っている。
膣の中に異物が入っているということは、同時に、耐えず局所が開いているということである。それは絶え間ない尿意に襲われていることと同義である。それがもたらす羞恥は、子供のときのおもらしの比ではない。
股間から這い上がってくる巨大なムカデは、少女の理性を完全に曇らせる。だから、教師の言葉もこのように聞こえることになる。
「みなさん、榊さんには秘密があります ―――」
教師の声に従って、クラス中がごおっとなる。それに煽られるとさらにあおいを責め立てる言葉が、彼女の口から発される。
「榊さん、立って下さい。そして、スカートを捲ってください」
あおいは、巨大な鉈(なた)で脊椎を割られるような衝撃を受けた。この先生はいったい、何を言っているのだろう。少女は、訝ったが、同時にその発言が正鵠を射ていることを思いしらされる。なんと言っても、少女の股間は不自然な金庫によって閉じられているからだ。
そして、教師の発言はさらに情け容赦なくなっていく。
「はい、みんなで榊さんの秘密を調べてみましょう!」
「賛成!!」
机が、椅子が、恐怖の宣告をする。それは世界の終わりに天使が鳴らすラッパにも酷似している。
「いや!やめて!!」
たまらなくなって泣き叫ぶあおい。しかし、次の瞬間、その声によって何かを思い出したのである。 それは別名、現実という。今まで、あおいが体験してきたのは彼女じしんが紡いだ悪夢だった。
最初の教師の言葉はこうである。
「榊さん、黒板まで来てこの問題を解いてください」
次は ―――。
「どうしました?」
クラスメートのざわめきも、あおいに対する同情に満ちた温かいものだった。何もかも真逆の方向にベクトルが向かってしまった。心ならずも、誰かの声が合図となってあおいは意識を失ってしまった。その声をあおいにとっては何かの引導だったのだろうか?
「榊さん?」
「あおいちゃん!?」
教師の声と、啓子の声、そして、クラスメートたちの声。それぞれが渦を巻いて、ぐるぐると少女を螺旋の中心へと落とし込んでいく。
―――う、失っちゃいけない。そんなことなったら、バレちゃう! ぜったいに知られてはいけない、秘密が!!
意識をはっきりさせようと、息込んだが、いちど折れたタンポポの茎が元に戻ることは、ほとんどないだろう。
足に入れようとした力がしだいに抜けていく。ただの棒に変化していく。そして ――。
暗転。
「朝から具合悪かったのよね、ムリするから」
「・・・・・・・・・・!?」
無責任な保険委員を睨みつけておいて、啓子はあおいに駆け寄るなり抱き上げた。その仕草があまりに自然なので、教室中、一枚の絵を見ているような気分になった。時間が停止したのである。
教師ですら、まったく手を出すことができなかった。
そうこうしているうちに授業のおわりを告げるチャイムが鳴った。
「女の子なのに?」
「ウウグググ・・・ハイ」
まるで自分自身の死をモールス信号で表すように、由加里は答えた。
「よく言っていることがわからないんだけど、あいにくと、私は、ごくノーマルな人間なのでそのヘンのことは詳しくないのよね。誰かと違って・・・・・」
自分のことは何処かの棚に上げて、大胆に言ってのける。おそらく、その棚は、この地球上の何処にも存在しないにちがいない。近くて、太陽系の外縁くらいだろうか。
一方、由加里は、まっすぐに妖女の侮辱を受けて止めていた。承けて流すことを知らないこの少女は、ここまで侮辱され唾を吐かれても、品位を下げるということを知らない。可南子は、それが気にくわない。
彼女のような女性が一生かかっても、それこそ、地球の北から南まで駆け回ったとしても、由加里が持ち合わせているような品位を得ることはできないだろう。何の努力もせずに西宮由加里という肉体に生まれ落ちたというだけで、この少女はこんな高級な真珠を持っている。それが許せなかった。
「きっと、生まれつきインランで、薄汚い由加里チャンなら知ってるのよね。もっと詳しく教えてくれない?」
「ウウ・ウ・ウ・ウウ・・、コ、コミックで、きっと、架空の・・・・・ウウ・ウ・・ウウ」
賀茂真淵や、本居宣長が聞いたら、きっと呆れるどころではなく悪霊となって取り憑くぐらいのことはするにちがいない。完全にただしい日本語というものを無視している。
少女は、自分の中に競合する感情たち、例えば、羞恥心や悲しみ、そして、絶望感や無力感、それらマイナスのエネルギーの対応に苦慮していた。そのために、それを言語化するプログラムが上手く作動していないのである。
しかし、可南子の方はそうはいかない。もともと、ものを深く考えるということを若いころからしてこなかったこの女は、自分と違う思考タイプが存在することを想定できない。だから、由加里のような自分よりもはるかに知的に優れている存在に、意識的にせよ、無意識的にせよ、そねむことになる。
しかし、そんな内心などオクビにも出さずに、由加里をいびり続ける。
「そんなコミックがあるの? でもあるとすれば18禁よね。ところで、由加里チャンっていくつだっけ?」
「ウウ・・じゅ、十四歳です・・・ウグ!!?」
言い終わるまえに、失禁状態の性器に指がエイリアンのように侵入していた。あやうく処女膜を破ってしまうところだった。
「危ない、危ない、それは本番でやることだったわ。ねえ、由加里チャン、14歳なのに、そんなもの読んでもいいの?」
「ウウ・ウ・・ウ・・ウウ、い、いけません・・・・ウウ・ウ・ウ・ウ」
成績という一面だけでなくて、生活態度や教師への心証といった点に置いても、黄金の内申書を誇っている由加里である。それは実質的なドキュメントに留まらない。小さい頃から大人にいたるまで、年上に対する心証は同年齢のそれをはるかに凌駕して好印象だった。
内申書には数字で表現されるものとされないものがある。由加里は、両者において常に満点を誇っていたのである。
まさに可南子の反対側を歩いてきた由加里である。そのふたりが、二人は奇縁によって交差しようとしている。
メスの大蛇が小蛇に絡みついている。後者の頭に輝く真珠を狙っているのだ。
それは彼女じしんの境遇に対する不満からくる復讐心なのか。そもそも、ものを考えない性質の彼女だから、考えるまえに手が出てしまう。
しかし、邪悪な妖女がいくら少しくらい美しいものを食べたとしても、鱗のひとつが輝くにすぎない。これまで、重ねてきた悪業のどれをとっても償われることはないのだ。どうじに、彼女の品位がすこしでも上がる等と言うこともない。
「本当に悪い子ね、罰が必要だわ!」
「ひぃ!痛い!!」
可南子は、由加里のクリトリスを捻り潰さんばかりに抓った。
睫から眼球に至るまで、ものを見るためのすべての器官が涙によって溶かされてしまうのではないかと思った。
写真を印象画風にぼかすコンピューターソフトが存在するが、ちょうどそのように視界が歪んでいた。ミレーやルノワールと言った印象派の巨匠と呼ばれる画家たちの作品の高尚さとはまったく違う次元の、浅薄で短絡的な技がそこに存在している。
―――私なんて、このていどの人間なんだわ。誰にも愛される資格なんてない。
そう思った同時に、家族や友人たちの顔が浮かんでは消えた。いや、消えるだけならいいが、かつては、自分に向けられていたまぶしいばかりの笑顔が軽蔑と憎悪の入り交じった顔に変わるときには、全身の毛穴が萎む。
めざとい可南子は、そんな由加里の変容に何処までも追いついていく。まるで、ストーカーのようだ。
「寒いの? もう夏なのよ。あたしが温めてあげる!」
「ウギィイ!?」
可南子は、由加里が負った重傷のことも忘れて力の限り抱き締める。ギリギリと全身の骨が軋むような気がする。このまま抱かれていたら、折れてしまうのではないか。由加里は怖れた。
「今日はねえ、可哀想な由加里チャンのために最高のプレゼントを用意したんだよ」
妖女は、可哀想なという形容動詞が少女のプライドを丸裸にするために、最適な言葉だと意識ではなく、無意識のレベルで知っていた。
大蛇は、まさに小蛇を取って喰おうとしていた。
ちょうど、その時テニスコートでは、黄金が煌めいていた。それを嫉妬たっぷりの視線で見つめる美少女がいる。
「私はねえ、はるかのヤツがむかつくのよ ――――」
「え?」
鈴木ゆららは、年長の女性を見上げるように、照美の綺麗な顔を見つめた。
はるかとの試合を終えた照美は、汗を拭きながらスポーツドリンクに口を付けている。その姿がやけに絵になる。美の女神のようなその姿に気を取られていて、肝腎のご神託、そのものは耳に入っていなかった。
しかし、照美は話を続ける。
「 ――――あんなに夢中になるものがあってさ」
「・・・・・・・・」
この時になって始めて、ゆららは、「むかつく」という言葉が「羨ましい」と同義であることを知ったのである。
そして、本来ならばぞんざいな言葉遣いをしない才媛が、自分に対してそのような言い方をすることじたいが、栄冠のように思えた。まるで疑似家族に叙せられたような気がした。そのことじたいが誇らしかった。人間として自分を扱ってくれるだけでなく、このような特別な扱いをしてくれる。それは、自分のような汚らわしい存在には晴れがましい衣装だった。
うまく、言葉を使って自分の気持ちを表現できない。しかし、そんなことは構わずに照美は言葉を紡ぎ続ける。
「何をやっても、私は、おもしろくないのよ」
「でも、私は何をやっても、満足にできない ――――」
ゆららが失禁するように言葉を吐き出すようすを見て、照美は自分の失態を呪った。今度は、照美が話を聞く番だった。
はるかが言った能力と運命のことを思い出しながらも、意識の届かないところで舌を動かすことを余儀なくされる。
「私は、照美さんが羨ましい ――――」
「・・・・・・・・・・・」
目の前で一級の試合が行われているというのに、照美とゆららは、そちらの方を見ていない。しかしながら、そんなことを気にするあゆみではなかった上に、はるかにしても、目の前の球を拾うことに夢中で、余裕はまったくなかった。
病み上がりとはいえ、西沢あゆみは西沢あゆみだったのである。いや、当時のレベルにおいては、彼女の力量を理解できる立場になかったのだろう。同年齢の選手の中でずば抜けた力量を認められているとはいえ、やはり中学生。相手は世界的なプロである。大人と子供が相撲を取っているようなものだ。
照美とゆららの方でも、そちらを忖度する余裕はなかった。前者は後者に心を砕き、後者は狭窄した視野のなかで閉じこめられてラケットがボールを叩く音すら聞こえていない状態だった。
「ゆららちゃん・・・・・・・」
「ウウ・ウ・ウウウ」
照美は言葉をゆららを正当に遇する言葉を知らなかった。だから、こうするしかなかった。ゆららの華奢な、いや、華奢すぎる肩に手を回した。
「・・・・・・・!?」
照美は驚いた。服の下に肉体が本当に存在するのか疑うほど、実在感が透明だったからだ。しかし、仄かな温かさは照美に、マッチの明かりを感じさせた。この少女の中に灯った小さな明かりを消すまいと、両手をかざして風を防ごうと心がけた。
それだけが、唯一、照美にできることだった。
ささやかなこの空間の外では、極大の嵐が起きているというのに内では消え入りそうな炎が煤を出しながら消えようとしている。
照美の目には、それがいまわの際、寸前の呼吸に見えた。それがあまりに痛々しくて、照美は、自然に自分の内から優しい心が流れてくるのを感じた。その微風に気づかないほどに、知らず知らずに優しい顔をしていたのである。それがゆららにいい影響を与えないはずはなかった。
しかし、同時に罪悪感をも与えていたのである。自分が他人に迷惑をかけているのではないかという感覚。それは、少女がこの世に生を受けて以来、慢性的に思ってきたことである。
はるかは、苛立っていた。照美たちが試合を見ていないことに腹を立てたのである。
―――あの二人!! いったい、何をしているのよ!
しかしながら、大型の台風を相手にしているときに、注意を反らすことは致命的なミスを犯す伏線となる。西沢あゆみと剣を交えるとは、はるかにとってそういうことなのだ。
「う?!」
あゆみがラケットにボールを当てようとした、次の瞬間、それははるかの目の前に存在していた。それだけではない。それは、バスケットボールほどの大きさに膨らんでいた。
「ひ!?」
表現するのも哀れな声を上げて、はるかは地面に転がっていた。ボールは、ふいに避けようとしたために、中空に棒立ちになったラケットの先に当たって、あさっての方向に消え去った。そして、はるかは、ボールの衝撃というよりは、自分自身が起こした運動を制御できずに転んだのである。
「ウウ・ウ・ウ・・!!」
立ち上がってもまだ腕がビリビリと言っている。まだ帯電しているようだ。それほどまでにあゆみが放ったボールはその衝撃を保っていたのである。
「はるか、何をやってる!? なんてブザマな姿だ。ボールにぶつかっていくならともかく、避けようとして転ぶなんて、見ていられん!!」
尺骨と橈骨 身の間に帯電する痛みよりもさらに強烈な声が、はるかを襲う。
――――あいつ、何をしてるんだ?
すぐに照美のいやらしい笑いが聞こえてくると思ったはるかは、拍子抜けしてそちらに視線を向けた。あゆみの叱責よりもそちらが気がかりだったのだ。
照美はゆららを抱き締めていた。
その姿は母と娘を彷彿とさせる。何やら温かい雰囲気を醸し出していた。あゆみもその影響を受けたのか、はるかを叱責することを止めて、夕日を見つめるように二人の様を見つめ続けていた。
「ウウグググ・・・ハイ」
まるで自分自身の死をモールス信号で表すように、由加里は答えた。
「よく言っていることがわからないんだけど、あいにくと、私は、ごくノーマルな人間なのでそのヘンのことは詳しくないのよね。誰かと違って・・・・・」
自分のことは何処かの棚に上げて、大胆に言ってのける。おそらく、その棚は、この地球上の何処にも存在しないにちがいない。近くて、太陽系の外縁くらいだろうか。
一方、由加里は、まっすぐに妖女の侮辱を受けて止めていた。承けて流すことを知らないこの少女は、ここまで侮辱され唾を吐かれても、品位を下げるということを知らない。可南子は、それが気にくわない。
彼女のような女性が一生かかっても、それこそ、地球の北から南まで駆け回ったとしても、由加里が持ち合わせているような品位を得ることはできないだろう。何の努力もせずに西宮由加里という肉体に生まれ落ちたというだけで、この少女はこんな高級な真珠を持っている。それが許せなかった。
「きっと、生まれつきインランで、薄汚い由加里チャンなら知ってるのよね。もっと詳しく教えてくれない?」
「ウウ・ウ・ウ・ウウ・・、コ、コミックで、きっと、架空の・・・・・ウウ・ウ・・ウウ」
賀茂真淵や、本居宣長が聞いたら、きっと呆れるどころではなく悪霊となって取り憑くぐらいのことはするにちがいない。完全にただしい日本語というものを無視している。
少女は、自分の中に競合する感情たち、例えば、羞恥心や悲しみ、そして、絶望感や無力感、それらマイナスのエネルギーの対応に苦慮していた。そのために、それを言語化するプログラムが上手く作動していないのである。
しかし、可南子の方はそうはいかない。もともと、ものを深く考えるということを若いころからしてこなかったこの女は、自分と違う思考タイプが存在することを想定できない。だから、由加里のような自分よりもはるかに知的に優れている存在に、意識的にせよ、無意識的にせよ、そねむことになる。
しかし、そんな内心などオクビにも出さずに、由加里をいびり続ける。
「そんなコミックがあるの? でもあるとすれば18禁よね。ところで、由加里チャンっていくつだっけ?」
「ウウ・・じゅ、十四歳です・・・ウグ!!?」
言い終わるまえに、失禁状態の性器に指がエイリアンのように侵入していた。あやうく処女膜を破ってしまうところだった。
「危ない、危ない、それは本番でやることだったわ。ねえ、由加里チャン、14歳なのに、そんなもの読んでもいいの?」
「ウウ・ウ・・ウ・・ウウ、い、いけません・・・・ウウ・ウ・ウ・ウ」
成績という一面だけでなくて、生活態度や教師への心証といった点に置いても、黄金の内申書を誇っている由加里である。それは実質的なドキュメントに留まらない。小さい頃から大人にいたるまで、年上に対する心証は同年齢のそれをはるかに凌駕して好印象だった。
内申書には数字で表現されるものとされないものがある。由加里は、両者において常に満点を誇っていたのである。
まさに可南子の反対側を歩いてきた由加里である。そのふたりが、二人は奇縁によって交差しようとしている。
メスの大蛇が小蛇に絡みついている。後者の頭に輝く真珠を狙っているのだ。
それは彼女じしんの境遇に対する不満からくる復讐心なのか。そもそも、ものを考えない性質の彼女だから、考えるまえに手が出てしまう。
しかし、邪悪な妖女がいくら少しくらい美しいものを食べたとしても、鱗のひとつが輝くにすぎない。これまで、重ねてきた悪業のどれをとっても償われることはないのだ。どうじに、彼女の品位がすこしでも上がる等と言うこともない。
「本当に悪い子ね、罰が必要だわ!」
「ひぃ!痛い!!」
可南子は、由加里のクリトリスを捻り潰さんばかりに抓った。
睫から眼球に至るまで、ものを見るためのすべての器官が涙によって溶かされてしまうのではないかと思った。
写真を印象画風にぼかすコンピューターソフトが存在するが、ちょうどそのように視界が歪んでいた。ミレーやルノワールと言った印象派の巨匠と呼ばれる画家たちの作品の高尚さとはまったく違う次元の、浅薄で短絡的な技がそこに存在している。
―――私なんて、このていどの人間なんだわ。誰にも愛される資格なんてない。
そう思った同時に、家族や友人たちの顔が浮かんでは消えた。いや、消えるだけならいいが、かつては、自分に向けられていたまぶしいばかりの笑顔が軽蔑と憎悪の入り交じった顔に変わるときには、全身の毛穴が萎む。
めざとい可南子は、そんな由加里の変容に何処までも追いついていく。まるで、ストーカーのようだ。
「寒いの? もう夏なのよ。あたしが温めてあげる!」
「ウギィイ!?」
可南子は、由加里が負った重傷のことも忘れて力の限り抱き締める。ギリギリと全身の骨が軋むような気がする。このまま抱かれていたら、折れてしまうのではないか。由加里は怖れた。
「今日はねえ、可哀想な由加里チャンのために最高のプレゼントを用意したんだよ」
妖女は、可哀想なという形容動詞が少女のプライドを丸裸にするために、最適な言葉だと意識ではなく、無意識のレベルで知っていた。
大蛇は、まさに小蛇を取って喰おうとしていた。
ちょうど、その時テニスコートでは、黄金が煌めいていた。それを嫉妬たっぷりの視線で見つめる美少女がいる。
「私はねえ、はるかのヤツがむかつくのよ ――――」
「え?」
鈴木ゆららは、年長の女性を見上げるように、照美の綺麗な顔を見つめた。
はるかとの試合を終えた照美は、汗を拭きながらスポーツドリンクに口を付けている。その姿がやけに絵になる。美の女神のようなその姿に気を取られていて、肝腎のご神託、そのものは耳に入っていなかった。
しかし、照美は話を続ける。
「 ――――あんなに夢中になるものがあってさ」
「・・・・・・・・」
この時になって始めて、ゆららは、「むかつく」という言葉が「羨ましい」と同義であることを知ったのである。
そして、本来ならばぞんざいな言葉遣いをしない才媛が、自分に対してそのような言い方をすることじたいが、栄冠のように思えた。まるで疑似家族に叙せられたような気がした。そのことじたいが誇らしかった。人間として自分を扱ってくれるだけでなく、このような特別な扱いをしてくれる。それは、自分のような汚らわしい存在には晴れがましい衣装だった。
うまく、言葉を使って自分の気持ちを表現できない。しかし、そんなことは構わずに照美は言葉を紡ぎ続ける。
「何をやっても、私は、おもしろくないのよ」
「でも、私は何をやっても、満足にできない ――――」
ゆららが失禁するように言葉を吐き出すようすを見て、照美は自分の失態を呪った。今度は、照美が話を聞く番だった。
はるかが言った能力と運命のことを思い出しながらも、意識の届かないところで舌を動かすことを余儀なくされる。
「私は、照美さんが羨ましい ――――」
「・・・・・・・・・・・」
目の前で一級の試合が行われているというのに、照美とゆららは、そちらの方を見ていない。しかしながら、そんなことを気にするあゆみではなかった上に、はるかにしても、目の前の球を拾うことに夢中で、余裕はまったくなかった。
病み上がりとはいえ、西沢あゆみは西沢あゆみだったのである。いや、当時のレベルにおいては、彼女の力量を理解できる立場になかったのだろう。同年齢の選手の中でずば抜けた力量を認められているとはいえ、やはり中学生。相手は世界的なプロである。大人と子供が相撲を取っているようなものだ。
照美とゆららの方でも、そちらを忖度する余裕はなかった。前者は後者に心を砕き、後者は狭窄した視野のなかで閉じこめられてラケットがボールを叩く音すら聞こえていない状態だった。
「ゆららちゃん・・・・・・・」
「ウウ・ウ・ウウウ」
照美は言葉をゆららを正当に遇する言葉を知らなかった。だから、こうするしかなかった。ゆららの華奢な、いや、華奢すぎる肩に手を回した。
「・・・・・・・!?」
照美は驚いた。服の下に肉体が本当に存在するのか疑うほど、実在感が透明だったからだ。しかし、仄かな温かさは照美に、マッチの明かりを感じさせた。この少女の中に灯った小さな明かりを消すまいと、両手をかざして風を防ごうと心がけた。
それだけが、唯一、照美にできることだった。
ささやかなこの空間の外では、極大の嵐が起きているというのに内では消え入りそうな炎が煤を出しながら消えようとしている。
照美の目には、それがいまわの際、寸前の呼吸に見えた。それがあまりに痛々しくて、照美は、自然に自分の内から優しい心が流れてくるのを感じた。その微風に気づかないほどに、知らず知らずに優しい顔をしていたのである。それがゆららにいい影響を与えないはずはなかった。
しかし、同時に罪悪感をも与えていたのである。自分が他人に迷惑をかけているのではないかという感覚。それは、少女がこの世に生を受けて以来、慢性的に思ってきたことである。
はるかは、苛立っていた。照美たちが試合を見ていないことに腹を立てたのである。
―――あの二人!! いったい、何をしているのよ!
しかしながら、大型の台風を相手にしているときに、注意を反らすことは致命的なミスを犯す伏線となる。西沢あゆみと剣を交えるとは、はるかにとってそういうことなのだ。
「う?!」
あゆみがラケットにボールを当てようとした、次の瞬間、それははるかの目の前に存在していた。それだけではない。それは、バスケットボールほどの大きさに膨らんでいた。
「ひ!?」
表現するのも哀れな声を上げて、はるかは地面に転がっていた。ボールは、ふいに避けようとしたために、中空に棒立ちになったラケットの先に当たって、あさっての方向に消え去った。そして、はるかは、ボールの衝撃というよりは、自分自身が起こした運動を制御できずに転んだのである。
「ウウ・ウ・ウ・・!!」
立ち上がってもまだ腕がビリビリと言っている。まだ帯電しているようだ。それほどまでにあゆみが放ったボールはその衝撃を保っていたのである。
「はるか、何をやってる!? なんてブザマな姿だ。ボールにぶつかっていくならともかく、避けようとして転ぶなんて、見ていられん!!」
尺骨と橈骨 身の間に帯電する痛みよりもさらに強烈な声が、はるかを襲う。
――――あいつ、何をしてるんだ?
すぐに照美のいやらしい笑いが聞こえてくると思ったはるかは、拍子抜けしてそちらに視線を向けた。あゆみの叱責よりもそちらが気がかりだったのだ。
照美はゆららを抱き締めていた。
その姿は母と娘を彷彿とさせる。何やら温かい雰囲気を醸し出していた。あゆみもその影響を受けたのか、はるかを叱責することを止めて、夕日を見つめるように二人の様を見つめ続けていた。
青年がエンジンを踏むと、黒塗りの国産車はうなり声を上げた。それは生命の呼吸を思わせる。
背後で扉が締まると意志の強さを感じさせる女の声が聞こえる。
「谷崎君、啓三のところね」
「え? もしかして、辻口 ――――さんとお知り合いなんてすか?」
突然のことなので、敬称をつけることを忘れるぐらいだった。国選弁護人としてこの事件に係わろうとしていた矢先のことだ。そのために秘書兼、運転手である谷崎は、ある程度の情報を得ていたのである。
「啓三と彼の奥さんとは、幼馴染みよ」
「ということは、親友の娘を殺した犯人を弁護しようとしていたんですか?」
悪魔の笑みを浮かべて口を開く。
「ベンゴを不必要にさぼって、死刑になるように細工をするとでも行っておけば納得すると思ったのよ」
――――怖ろしい人だ。
谷崎は今更ながらに思った。いったい、何を考えているのかわからない。辣腕弁護士であることは痛いほどにわかっているが、その信条がどのベクトルに進んでいるのかわからない。そもそも彼女を動かす信念などと言うものは、存在しないのかも知れない。
車は、しなやかに地下車庫から吐き出されていく。そのエンジン音はほぼ無音で、これが一般サラリーマンの年収ではとうてい購入できない代物であることを想像させる。
しかし、外見では、それが高級車であることは伺えない。財前春実はそういうことを露出することを好まない。だから、谷崎に言って、それらの条件を満足させるような車を用意させたのである。
春実は25歳。この若さでひとつの弁護士事務所をかまえている。父親が元弁護士でありそれを受け継いだということもあるが、それだけは、事務所を発展させることはおろか、維持することすら難しいだろう。
それどころか、春実は、新進気鋭の弁護士として法曹界に飛び込んだ彼女は、まさに紳士の外見を纏った獣どもが獲物にヨダレを流すこの世界へと切り込んでいる最中である。
父親の人脈がものを言ったこともたしかに真実だった。
「お父様は、あの若さで引退なさったそうですな、お嬢様はその若さで城持ちとは。財前さんにはお世話になりましたから、ごひいきにさせてもらいますよ」
口では、白くなった髭をむやみに動かしていた老人たちだったが、その実、「小娘め」と完全に見くびっていることはあきらかだった。。彼の視線は、娘を通り過ぎて彼女の父親である元重鎮に注がれていたのである。
しかし、彼女はただの小娘ではなかった。
新進政治家の政治資金流用疑惑を見事解決したのである。それは彼女の華やかなデビュー作だったが、クライアントは春実と同じような立場だった。
すなわち、父親の地盤と看板を承け付いて、見事というか当たり前のように議員の席を得たのである。
ところが、それが初っぱなから躓いてしまった。政治資金流用の疑惑を掛けられたのである。当然のように離党、離職の憂き目にあった。当然のように起訴にまで至ってしまった。
父親や支持基盤から見捨てられそうになった彼に、手を差し伸べたのは春実だった。
彼女は自分の、というか元父親のものだった、人脈を利用して、事態を丸め込んだあげく、見事、無罪を勝ち取ることに成功した。言うまでもなく灰色の解決であり、見る人にはその内実が明かだったが、むしろ、それだけに法曹界における彼女の地位を保証したのである。そればかりか、政界の歓心をも得ることになった。
たがが、20代そこそこの弁護士が、である。
この時、北の大地、九州にあってたしかな第一歩を踏み出したのだった。いささか、灰色の翼を隠し持っての ―――ことではあるが。
黒い車は、白亜の城に接近しようとしていた。
街の中心に位置する辻口医院は長崎一円の中心的な医療を担っている。季節が季節ならば流氷が見える高台に、その建物が建っている。
地方都市のために、他に高い建築物を見つけることが難しい。そのために見方によると長崎城にも見えないこともない。町民は半ば、尊敬、半ば、囃し立てる意味で、歴代病院長を『長崎城主』と呼んできた。
現在の院長は、辻口建造がその身分を担っているが、病気のために息子に継がせる日も遠くないとみんなが噂している。病院関係者だけでなく、町の人たちにとってみても公然の秘密である。
その息子というのは啓三と言って、まだ27歳の若さだが、九大では、未来を嘱望され、教授連中がなんとしても大学に残そうと運動したが、昨年、故郷に帰還した。目下の噂では、結婚してまもない奥さんのことが心配だとか。しかし、彼女じしんのことよりも彼女の不貞が心配だったらしいとの噂も立っている。
妻である辻口夏枝は大変な才媛ということで有名である。
「でも、アポしなくていいですか、先生」
谷崎は病院の駐車場に車を入れながら言った。
「私と啓三の仲よ」
「でも手術してるかもしれませんよ」
「手術室に闖入してやるわ」
「せ、先生・・・・・」
―――血迷ったりすればそのぐらいのことをやりかねない。
頭では、冗談だとわかっていながらも、谷崎はそう危惧する。今まで、さんざん見せつけられた行動力を考えればしぜんな考えだった。それがプラスのベクトルに向けば、効果は倍増だが、一旦マイナスに向けば事態はとんでもないことになる。
――――同時に外科の先生なのだな。
しかし、同時にそのようにも考えた。
ヘンに冷静な観察眼を併せ持っている運転手である。
車のキーを捻るときには、もうずかすかと玄関を潜るところだった。まるで自分の病院のような勢いである。
「せ、先生!」
まるで荒ぶる神を修める神官のような心持ちで、雇い主の後を追う。
エレベーターに到着したときには、谷崎はふらふらになっていた。ハンケチで額の汗を拭う。
「運動不足ね、男のくせに ――――」
すこし走っただけで息も絶え絶えになっている部下に文句のひとつでもぶつけようとしたところで、エレベーターのドアが開いた。
中から出てきたのは、杖を携えた老人である。春実は親しげに声をかけた、
「ああ、びっこ先生」
「え? 春実ちゃんじゃないか。何処か悪いのかね? 君が?」
まるで可愛い孫を見るような目つきである。それをうける春実はまさに孫に見える。
このような春実の一面を、谷崎は始めて見せられた。感慨もひとしおである。
まるで杖が頼られているのではなくて、杖に老人が付属しているようにすら見える。
「啓三君に用があるのよ」
街の尊敬を一身に集めているこの老人に敬語を使わないのを興味深い目で見る。
「ああそうかい、副院長室におるよ」
「わかったわ」
短く答えるとエレベーターのボタンを押した。
老人がいなくなったところで、疑問に思ったことを雇い主にぶつけてみる。
「先生とびっこ先生は、ご懇意にされているのですか?」
「啓三たちとはきょうだいみたいにして育ったからね」
春実は遠い目をした。
この人にも少女時代があったのだなと当たり前のような感想を漏らした。
「どうしたのよ、不思議かしら? 私にも子供時代はあったんだからね。この大きさじゃ子宮を破っちゃうでしょう?」
―――なんて鋭い!
谷崎は心臓を剣で貫かれたような気がした。話題を元に戻して逃げることにする。
「びっこ先生って昔からのあだ名なんでしょうか?」
「あれはねえ、若いころからそうだって話よ。なんでも戦傷らしいわ。南方らしいわ。でもそのおかげで帰還できたって哀しげに言っていたわ」
「哀しげに?」
「自分だけが助かったって、いつも陽気な先生が泣いてたっけ。お酒を呑んだときにはね」
浅瀬からいくらばかりか、深い海を臨んだような気がする。自分は、財前春実という人間について何も知らないと思いしらされた。
しかし、もっと不思議だったのは、殺された孫の話に言及しなかったことだ。それほどまでに深い間柄ならば、いや、他人どうしであっても定番の挨拶ぐらいあってもおかしくはない。
いや、深い間柄なればこそ、ということもありえるかもしれぬ。
そんなことを考えているうちに副院長室に到着した。春実は、ノックもせずに部屋に入っていく。
「誰だ!?ノックもせずに ―――うん、春実か?」
始めてみる次期『領主』は、かなりの美男だと谷崎は思った。ハンサムという言葉から連想される語感ほどに冷たい印象はない。むしろ、美男という古くさい言葉の方が、この男性には等しいと思われた。その証拠に、論文を眺める難しそうな顔からも、仄かな優しさが漂ってくる。
春実は、それをさらに和らげるように、机の上に腰を掛けた。二人が相当に懇意であることがわかる。
難しい顔が春実を見つけると一変する。しかし、すこしばかり顔を赤らめると。わざと機嫌の悪さを演出する。
「何のようだ」
「ヤボ用よ、谷崎君、悪いけど席を ―――」
「わかりました」
「おい、悪いだろう、お前の従僕じゃあるまいし ――お茶でも」
「秘書よ」
春実はまったく悪びれない。
「私はいいですよ」
「よくないって、安斎くん」
「はい」
入室してきたのは和服が似合いそうな若い女性だった。清楚な仕草が谷崎の嗅覚を刺激する。
谷崎は、その女性に連れられて隣室へと消えていった。
彼を見送ると、春実は態度を一変させた。
「啓三、私は、許せないのよ、あの夏枝を!」
まるで英語のシンタックスを日本文に移し替えたような言い方は、春実のどんな内面を暗示しているのか、啓三は計りかねた。
「今、思いだしても腹が立つ!」
夏枝主催のパーティで発見してしまったのだ、こともあろうに、彼女と学校を出たばかりの若い医師が逢瀬をしているのを。
いくら春実を信頼している啓三であっても、彼女からの伝聞だったら俄には信じなかったかもしれない。しかしながら、その現場に彼じしんが居合わせたとしたら。
「なあ、もしもオレがそこにいなかったとしたら、伝えたか」
「当たり前でしょう?」
「・・・・・・・・・・」
啓三は、すぐには返答しかねた。
「お前が怒っても仕方ないだろう」
「そんなことはないわよ、私は一番の親友に裏切られたのよ、私は!!」
「お前、まさか ―――」
気が付いたときには、親友の美貌が目の前にあった。こんなに間近に見るのは幼少期いらいである。当時は3人で一緒に寝たものだ。夏枝のそそのかしによって、啓三の寝顔にキスしたこともある。
それから、しばらくそのことで脅迫されつづけたものだ。
後で、建造にばれて、こっぴどく叱られたものだった。悪の計画は潰えたというわけである。
思えば、あの老人が怒った姿を見たのはその場面が最後だった。
しかし、今の春実にはそのようなノスタルジーに満ちた子供時代などは、思い返す気にもならない。
愛おしい人に唇を重ねようとして、身体を寄せたが、意を決したように背中を彼に向けた。
「・・・・・・・・・・」
啓三はその続きを音声にすることができなかった。何よりも、彼女のプライドを護ろうとしたのである。 もう過去は戻らない。
「啓三、何も言わずに私の計画にうんと言ってちょうだい」
「計画? 何のための!?」
「夏枝に復讐するためよ!!」
「・・・・・・・・!?」
「これを見てちょうだい、国選弁護人として、私は選出されたの」
「君が、国選かい?え?!」
啓三は、心底驚いた。胃の底が抜けるかと思った。それな何あろう、左石陽蔵の弁護依頼の書類だったのである。
「お前、これを承けるつもりだったのか?」
「まさか」
春実は息をついて、再び口を開いた。
「下の書類を見て」
「何? あいつに娘がいたのか、三歳?」
「そこの愛児院にいるわ。その名前に憶えはない? それで、私は弁護士なのよね」
二つの文章はまるで関連性がないと思われた。しかし、啓三と春実の身分を知っている人間ならばその隠された意味を推測できるはずである。
「夏枝は、娘が欲しいって泣き叫んでいたわね。もう自分は子供が産めないからって、もうひとり娘が欲しいって ――――忘れないでね、私は弁護士なのよ」
春実は、悪魔的な微笑を浮かべた。この時、彼女は、これから自分が行うはかりごとによって、どれほどの重荷を背負うのか、激しい憎しみのために未来を想像すらできない状況に陥っていた、この人並み外れて知的な女性が。
背後で扉が締まると意志の強さを感じさせる女の声が聞こえる。
「谷崎君、啓三のところね」
「え? もしかして、辻口 ――――さんとお知り合いなんてすか?」
突然のことなので、敬称をつけることを忘れるぐらいだった。国選弁護人としてこの事件に係わろうとしていた矢先のことだ。そのために秘書兼、運転手である谷崎は、ある程度の情報を得ていたのである。
「啓三と彼の奥さんとは、幼馴染みよ」
「ということは、親友の娘を殺した犯人を弁護しようとしていたんですか?」
悪魔の笑みを浮かべて口を開く。
「ベンゴを不必要にさぼって、死刑になるように細工をするとでも行っておけば納得すると思ったのよ」
――――怖ろしい人だ。
谷崎は今更ながらに思った。いったい、何を考えているのかわからない。辣腕弁護士であることは痛いほどにわかっているが、その信条がどのベクトルに進んでいるのかわからない。そもそも彼女を動かす信念などと言うものは、存在しないのかも知れない。
車は、しなやかに地下車庫から吐き出されていく。そのエンジン音はほぼ無音で、これが一般サラリーマンの年収ではとうてい購入できない代物であることを想像させる。
しかし、外見では、それが高級車であることは伺えない。財前春実はそういうことを露出することを好まない。だから、谷崎に言って、それらの条件を満足させるような車を用意させたのである。
春実は25歳。この若さでひとつの弁護士事務所をかまえている。父親が元弁護士でありそれを受け継いだということもあるが、それだけは、事務所を発展させることはおろか、維持することすら難しいだろう。
それどころか、春実は、新進気鋭の弁護士として法曹界に飛び込んだ彼女は、まさに紳士の外見を纏った獣どもが獲物にヨダレを流すこの世界へと切り込んでいる最中である。
父親の人脈がものを言ったこともたしかに真実だった。
「お父様は、あの若さで引退なさったそうですな、お嬢様はその若さで城持ちとは。財前さんにはお世話になりましたから、ごひいきにさせてもらいますよ」
口では、白くなった髭をむやみに動かしていた老人たちだったが、その実、「小娘め」と完全に見くびっていることはあきらかだった。。彼の視線は、娘を通り過ぎて彼女の父親である元重鎮に注がれていたのである。
しかし、彼女はただの小娘ではなかった。
新進政治家の政治資金流用疑惑を見事解決したのである。それは彼女の華やかなデビュー作だったが、クライアントは春実と同じような立場だった。
すなわち、父親の地盤と看板を承け付いて、見事というか当たり前のように議員の席を得たのである。
ところが、それが初っぱなから躓いてしまった。政治資金流用の疑惑を掛けられたのである。当然のように離党、離職の憂き目にあった。当然のように起訴にまで至ってしまった。
父親や支持基盤から見捨てられそうになった彼に、手を差し伸べたのは春実だった。
彼女は自分の、というか元父親のものだった、人脈を利用して、事態を丸め込んだあげく、見事、無罪を勝ち取ることに成功した。言うまでもなく灰色の解決であり、見る人にはその内実が明かだったが、むしろ、それだけに法曹界における彼女の地位を保証したのである。そればかりか、政界の歓心をも得ることになった。
たがが、20代そこそこの弁護士が、である。
この時、北の大地、九州にあってたしかな第一歩を踏み出したのだった。いささか、灰色の翼を隠し持っての ―――ことではあるが。
黒い車は、白亜の城に接近しようとしていた。
街の中心に位置する辻口医院は長崎一円の中心的な医療を担っている。季節が季節ならば流氷が見える高台に、その建物が建っている。
地方都市のために、他に高い建築物を見つけることが難しい。そのために見方によると長崎城にも見えないこともない。町民は半ば、尊敬、半ば、囃し立てる意味で、歴代病院長を『長崎城主』と呼んできた。
現在の院長は、辻口建造がその身分を担っているが、病気のために息子に継がせる日も遠くないとみんなが噂している。病院関係者だけでなく、町の人たちにとってみても公然の秘密である。
その息子というのは啓三と言って、まだ27歳の若さだが、九大では、未来を嘱望され、教授連中がなんとしても大学に残そうと運動したが、昨年、故郷に帰還した。目下の噂では、結婚してまもない奥さんのことが心配だとか。しかし、彼女じしんのことよりも彼女の不貞が心配だったらしいとの噂も立っている。
妻である辻口夏枝は大変な才媛ということで有名である。
「でも、アポしなくていいですか、先生」
谷崎は病院の駐車場に車を入れながら言った。
「私と啓三の仲よ」
「でも手術してるかもしれませんよ」
「手術室に闖入してやるわ」
「せ、先生・・・・・」
―――血迷ったりすればそのぐらいのことをやりかねない。
頭では、冗談だとわかっていながらも、谷崎はそう危惧する。今まで、さんざん見せつけられた行動力を考えればしぜんな考えだった。それがプラスのベクトルに向けば、効果は倍増だが、一旦マイナスに向けば事態はとんでもないことになる。
――――同時に外科の先生なのだな。
しかし、同時にそのようにも考えた。
ヘンに冷静な観察眼を併せ持っている運転手である。
車のキーを捻るときには、もうずかすかと玄関を潜るところだった。まるで自分の病院のような勢いである。
「せ、先生!」
まるで荒ぶる神を修める神官のような心持ちで、雇い主の後を追う。
エレベーターに到着したときには、谷崎はふらふらになっていた。ハンケチで額の汗を拭う。
「運動不足ね、男のくせに ――――」
すこし走っただけで息も絶え絶えになっている部下に文句のひとつでもぶつけようとしたところで、エレベーターのドアが開いた。
中から出てきたのは、杖を携えた老人である。春実は親しげに声をかけた、
「ああ、びっこ先生」
「え? 春実ちゃんじゃないか。何処か悪いのかね? 君が?」
まるで可愛い孫を見るような目つきである。それをうける春実はまさに孫に見える。
このような春実の一面を、谷崎は始めて見せられた。感慨もひとしおである。
まるで杖が頼られているのではなくて、杖に老人が付属しているようにすら見える。
「啓三君に用があるのよ」
街の尊敬を一身に集めているこの老人に敬語を使わないのを興味深い目で見る。
「ああそうかい、副院長室におるよ」
「わかったわ」
短く答えるとエレベーターのボタンを押した。
老人がいなくなったところで、疑問に思ったことを雇い主にぶつけてみる。
「先生とびっこ先生は、ご懇意にされているのですか?」
「啓三たちとはきょうだいみたいにして育ったからね」
春実は遠い目をした。
この人にも少女時代があったのだなと当たり前のような感想を漏らした。
「どうしたのよ、不思議かしら? 私にも子供時代はあったんだからね。この大きさじゃ子宮を破っちゃうでしょう?」
―――なんて鋭い!
谷崎は心臓を剣で貫かれたような気がした。話題を元に戻して逃げることにする。
「びっこ先生って昔からのあだ名なんでしょうか?」
「あれはねえ、若いころからそうだって話よ。なんでも戦傷らしいわ。南方らしいわ。でもそのおかげで帰還できたって哀しげに言っていたわ」
「哀しげに?」
「自分だけが助かったって、いつも陽気な先生が泣いてたっけ。お酒を呑んだときにはね」
浅瀬からいくらばかりか、深い海を臨んだような気がする。自分は、財前春実という人間について何も知らないと思いしらされた。
しかし、もっと不思議だったのは、殺された孫の話に言及しなかったことだ。それほどまでに深い間柄ならば、いや、他人どうしであっても定番の挨拶ぐらいあってもおかしくはない。
いや、深い間柄なればこそ、ということもありえるかもしれぬ。
そんなことを考えているうちに副院長室に到着した。春実は、ノックもせずに部屋に入っていく。
「誰だ!?ノックもせずに ―――うん、春実か?」
始めてみる次期『領主』は、かなりの美男だと谷崎は思った。ハンサムという言葉から連想される語感ほどに冷たい印象はない。むしろ、美男という古くさい言葉の方が、この男性には等しいと思われた。その証拠に、論文を眺める難しそうな顔からも、仄かな優しさが漂ってくる。
春実は、それをさらに和らげるように、机の上に腰を掛けた。二人が相当に懇意であることがわかる。
難しい顔が春実を見つけると一変する。しかし、すこしばかり顔を赤らめると。わざと機嫌の悪さを演出する。
「何のようだ」
「ヤボ用よ、谷崎君、悪いけど席を ―――」
「わかりました」
「おい、悪いだろう、お前の従僕じゃあるまいし ――お茶でも」
「秘書よ」
春実はまったく悪びれない。
「私はいいですよ」
「よくないって、安斎くん」
「はい」
入室してきたのは和服が似合いそうな若い女性だった。清楚な仕草が谷崎の嗅覚を刺激する。
谷崎は、その女性に連れられて隣室へと消えていった。
彼を見送ると、春実は態度を一変させた。
「啓三、私は、許せないのよ、あの夏枝を!」
まるで英語のシンタックスを日本文に移し替えたような言い方は、春実のどんな内面を暗示しているのか、啓三は計りかねた。
「今、思いだしても腹が立つ!」
夏枝主催のパーティで発見してしまったのだ、こともあろうに、彼女と学校を出たばかりの若い医師が逢瀬をしているのを。
いくら春実を信頼している啓三であっても、彼女からの伝聞だったら俄には信じなかったかもしれない。しかしながら、その現場に彼じしんが居合わせたとしたら。
「なあ、もしもオレがそこにいなかったとしたら、伝えたか」
「当たり前でしょう?」
「・・・・・・・・・・」
啓三は、すぐには返答しかねた。
「お前が怒っても仕方ないだろう」
「そんなことはないわよ、私は一番の親友に裏切られたのよ、私は!!」
「お前、まさか ―――」
気が付いたときには、親友の美貌が目の前にあった。こんなに間近に見るのは幼少期いらいである。当時は3人で一緒に寝たものだ。夏枝のそそのかしによって、啓三の寝顔にキスしたこともある。
それから、しばらくそのことで脅迫されつづけたものだ。
後で、建造にばれて、こっぴどく叱られたものだった。悪の計画は潰えたというわけである。
思えば、あの老人が怒った姿を見たのはその場面が最後だった。
しかし、今の春実にはそのようなノスタルジーに満ちた子供時代などは、思い返す気にもならない。
愛おしい人に唇を重ねようとして、身体を寄せたが、意を決したように背中を彼に向けた。
「・・・・・・・・・・」
啓三はその続きを音声にすることができなかった。何よりも、彼女のプライドを護ろうとしたのである。 もう過去は戻らない。
「啓三、何も言わずに私の計画にうんと言ってちょうだい」
「計画? 何のための!?」
「夏枝に復讐するためよ!!」
「・・・・・・・・!?」
「これを見てちょうだい、国選弁護人として、私は選出されたの」
「君が、国選かい?え?!」
啓三は、心底驚いた。胃の底が抜けるかと思った。それな何あろう、左石陽蔵の弁護依頼の書類だったのである。
「お前、これを承けるつもりだったのか?」
「まさか」
春実は息をついて、再び口を開いた。
「下の書類を見て」
「何? あいつに娘がいたのか、三歳?」
「そこの愛児院にいるわ。その名前に憶えはない? それで、私は弁護士なのよね」
二つの文章はまるで関連性がないと思われた。しかし、啓三と春実の身分を知っている人間ならばその隠された意味を推測できるはずである。
「夏枝は、娘が欲しいって泣き叫んでいたわね。もう自分は子供が産めないからって、もうひとり娘が欲しいって ――――忘れないでね、私は弁護士なのよ」
春実は、悪魔的な微笑を浮かべた。この時、彼女は、これから自分が行うはかりごとによって、どれほどの重荷を背負うのか、激しい憎しみのために未来を想像すらできない状況に陥っていた、この人並み外れて知的な女性が。
ちょうどそのころ、5年B組の教室では赤木啓子が入室したところだった。教師に命じられた書類運びという任務を果たし終えようとしていたところである。それを重々しそうな動作で教壇に置いたところ、友人が話しかけてきた。
「赤木さん、あおいのお姉さんが来てたわよ」
「え? 有希江姉さんが!?」
その驚きと喜びが微妙にブレンドされた表情を見ることは、あおいと言えどなかなか見られる代物ではない。
かつてよりもクラスに溶け込み始めた啓子だが、そのプライドの高さと高踏ぶりは、彼女を畏れさせるのに十分だった。あおいがいなくては、やはり、双方ともに何処か気まずい想いを否定できるにいるのだった。
友人に、その表情を見て取ったのか、笑顔を継続しようとしたが、無理に笑顔を作ったために、余計に畏れさせただけだった。
―――――あおいがいなくては、だめなのかしら。
「赤木さん?」
「・・・・・」
クラスメート同士において、ファーストネームで呼ばないのは、啓子だけである。あおいは当然のようにそのように呼ぶが、他の子たちはやはり敷居が高いと感じるらしい。
「ああ、そうだ。有希江姉さんが来てたのね? そうだ。」
何時にない落ち着かない足の運びで教室を飛び出すと、何時ものところへと脱兎のごとく走り出した。
「こら、教室では走らない!」とある教師は怒鳴り掛けて、その対象が普段は大人っぽい啓子であることを報されて驚きを隠さなかった。
――――きっと、あおいったら有希江姉ざんに叱られているんだわ。現場を押さえてとっちめてやる!
まるで3人目の姉になったつもりだった。上履きのゴムが床に突き刺さりそうな勢いで目標まで駈け抜けた。
「あら、啓子ちゃん ――――」
「有希江姉さん ――――」
角を曲がったところで長い廊下を介して、ふたりは互いを確認し終えた。
「よう」
「また、啓子が何か、しでかしたの?」
二人の間に通わされる空気は、一種特有のものがある。それはかつてのあおいさえ入れそうにないくらいに壁が厚い空間だった。
「ああ、忘れ物さ、それもこの子が忘れそうにないものなのよ。驚きよね」
有希江は、あおいの肩に手を回した。思わず身体を硬くするが、それは啓子には伝わらない。今、彼女はそれどころではないのである。
「何を忘れたの?」
その口調は、とうてい年上に対して行われるニュアンスではない。何か、同胞に対するような、もっと違った見方をすれば年下に対する態度にも見られかねない。
もしも、この学校で彼女にそのような態度をする学園生がいたならば、よほどの勇気の持ち主である。きっと一睨みされて、退散してしまうのが関の山だろう。
一方、有希江にしても、不思議な感覚をこの少女から受け取っていた。「姉さん」と呼ばれても、何故か妹のように感じない。
じっさいに妹ではないのだから、当然だと思われるかもしれない。だが、それは違う。姉妹のような深い親愛の関係を保ちながら、さいしょから、それは上下の関係ではなかった。目と目が合った瞬間から、深い信頼の情を感じ取った。まるで、すべてを受け止めてくれる大海のような錯覚を有希江は見たのである。当時は、さすがにプライドの高い有希江のこと、混乱したことは言うまでもない。それは、今でも継続中である。
それを追い払うように、有希江は口を開いた。
「この子、コレを忘れたのよ、こともあろうにね」
「ァ」
小さく叫び声を上げたあおいから弁当箱を奪い取ると、あおいの頭を軽く叩いたのである。
いたずらっ子ぽく笑う姉の顔は、少女に衝撃を与えた。
―――私よりも、好きなの?
どうして、「かわいい」と思わなかったのだろうか? その答えはこの世界の誰も出すことができないだろう。本人ですら、この時点では解答の伏線すら得ていない。
「好き」と「かわいい」ではニュアンスという点において重要な相違が存在するのだ。両者には大海が横たわっていると言って良い。地図的な立場から睥睨すれば、海峡程度の差異しかないように見えるが、いちど、着水してみればその広さが確認できるはずだ。
英仏海峡を思いだしてほしい。地図上からすれば今にも互いに触れてしまいそうな距離にあるが、じっさいに泳ぐとなれば話は別になるだろう。
さて、小学生と高校生。たがが4,5年の違いになるが、30歳と35歳の違いとは、自ずから性格が異なる。その両者に間に横たわる海峡には、英仏海峡ほどの差異もないとすら見受けられる。すこしでも、手を伸ばせば触れてしまうほどに近い。あおいは、そんな両者に嫉妬した。啓子だけにではない。有希江に、もである。
「あおい、何を狐に摘まれたような顔をしているのよ、初等部には狐なんていたっけ、姉ちゃんがいたころにはいなかったわ」
かつてと変わらない表情を見せる有希江。あおいは、どうやって返したらわからずに、いっしゅんだけ戸惑ったが、すぐに、過去のテープを巻き戻してみた。
「・・・・・・・・・・・それって何十年まえ・・・です、じゃない?」
カカと笑った姉は、小憎い冗談を言った妹に親愛の情を示した。要するに、妹にガバっと抱きついたのである。端からみれば、仲の良い姉妹それ以外には見えない。しかしながら、啓子はそうは見なかった。あおいの受け答えに何やらふしんなものを見て取ったのである。
―――――あおいちゃん?
啓子は、とつぜん鳴り始めたチャイムの音に、巨大なダムの門が閉じる光景を思い浮かべた。それが、ギロチンの刃が落ちる映像にも見えたのはどういうわけだろうか。
「有希江姉さん ――」
「何?」
有希江の笑顔に、啓子は危ういものを感じた。しかし、その具体的な内容を摑むことはできない。その面はゆい思いは、しぜんに少女の顔を曇らせた。
しかし、その曇りを押し払うように、掌を向けた。まるでその白い輝きがいっきょに天候を好転させるかのように。
「じゃあ、また」
「オッケー」
有希江は、にこやかに啓子に視線を返した。一方、あおいは、複雑な気持ちをさらなる迷宮へと追い込むだけだった。本来ならば自分に与えられるはずの笑顔が、自分を通り越して啓子へと向かっている。
ここは本当に、自分が生まれて育った世界なのだろうか。何かの弾みで別の世界へと足を踏み入れてしまったのではないだろうか。あるいは、自分はここにいない人間なのかもしれない。単なる造物主の錯覚か思い違いにすぎないのかもしれない。
もしも、かれが正気を取り戻した暁には、正真正銘消え失せることになる。みんなの記憶からも消え去っていくことだろう。榊あおいなどという人間は、最初からいなかったことになるのだ。
となれば、いじめられている今の状況は、まだしも幸福だと言えるのかもしれない。あおいは、神さまが正気を取り戻すことを怖れた。いや、もっと言うならば、意識を失ってほしかった。そうすれば、元の世界に戻れるかもしれない。あの幸せな日々に居を戻せるかもしれない。
股間の中に残された異物のことも忘れて、あおいは夢想の世界へと翼をはためかせていた。それを現実の世界へと引き戻したのは、啓子の一撃だった。
肩を軽く叩いただけである。
「ほら、何してるのよ、もうすぐ授業だよ」
「ぁひい・・・・」
「あおい?」
啓子は、もちろん、元気のないあおいに喝を与えるために行ったのだ。
しかし、それはあおいの身体に埋め込まれたバイブレータのスイッチをオンにするだけだった。もちろん、じっさいにそのおぞましい機械が仕込まれているわけではない。有希江は望むだろうが、少女の肩にそのボタンが設置されているわけでもない。身体に与える微弱な刺激があおいの股間を直撃し、内部のものを密かに、攪拌したのである。
「ぁあああう・・・・・・・」
ほんらいならば、存在しない神経に少女は困惑させられた。ここには、啓子がいる。そして、教師や学園生が廊下を歩いている。
ここは公的なばしょであり、着用している制服は彼らにそれを暗に命じている。それは当然のことながら、自分にも当てはまるはずだ。それなのに、厳粛であるべき学校で、自分はこんなハレンチな感覚に呻いている。あおいは消えたくなった。さきほどの思いを否定するような結論。自分はどんなにいじめられることになっても、存在していたい、生きていたいと希ったわけではなかったか。
足をふらつかせながら、教室へと向かう。その間、啓子と何を話したのかよく憶えていない。彼女が弁当を忘れて、有希江に持ってこさせたことを、啓子に笑われていたらしい。彼女の罪のない笑声が耳にこびりついている。
これまで、なんども振りかけられた友情と諧謔に満ちた耳に心地よい声であった。
しかし、今となっては股間の異物を震わせる声や足音たちと変わらない。けたたましい児童たちの笑顔や声、それに足音は、あおいを脅かす。それらは、束となって少女の幼い官能を刺激する。
そして、そのひとつひとつにいちいち反応してはビクつく。啓子は、その様子を訝しげに見ながらも何も出来ずに自分の無力さを実感させられるのだった。それを打ち消すために、少女が行ったことは、あおいにイライラをぶつけることだった。親友がどんなにヒドイ目にあっているのか知らない少女は、容赦なく振り上げた木刀を打ち据えるのだった。
「いい加減にしなさいよ! 聞いているの?!」
「うるさいなあ、具合が悪いの! 見ててわからないの!」
あおいは、残されたエネルギーを駆使して、かつて持っていた元気を見せつけようとした。啓子は、それを見抜けずにかまえて承けようとする。
「じゃあ、コレは要らないよね、私が食べてあげる!」
「ぁ、何を!?」
あらよあらよと、言ううちにあおいが持っていた弁当を、啓子は奪ってしまった。あおいは必死に手を伸ばすが、取られまいと弁当を振るので摑めない。掌の珠を奪われた怒りを爆発させて奪い返そうとするが、その動きが自らの股間を直撃した。
「ッゥアアア・・・・あう」
「あおいちゃん?」
人の痛みを知るというのは、本質的には不可能である。しかし、それをしたいと思うのは、心ある人間の悲しい性質である。我に帰ってた啓子は、卵を割らずに黄身を手に取ろうとしていた。もどかしい思いに苛立ち、その持って行きようのないエネルギーを、啓子もまた、あおいの官能に似た振動に身を悶えさせるのだった。
「赤木さん、あおいのお姉さんが来てたわよ」
「え? 有希江姉さんが!?」
その驚きと喜びが微妙にブレンドされた表情を見ることは、あおいと言えどなかなか見られる代物ではない。
かつてよりもクラスに溶け込み始めた啓子だが、そのプライドの高さと高踏ぶりは、彼女を畏れさせるのに十分だった。あおいがいなくては、やはり、双方ともに何処か気まずい想いを否定できるにいるのだった。
友人に、その表情を見て取ったのか、笑顔を継続しようとしたが、無理に笑顔を作ったために、余計に畏れさせただけだった。
―――――あおいがいなくては、だめなのかしら。
「赤木さん?」
「・・・・・」
クラスメート同士において、ファーストネームで呼ばないのは、啓子だけである。あおいは当然のようにそのように呼ぶが、他の子たちはやはり敷居が高いと感じるらしい。
「ああ、そうだ。有希江姉さんが来てたのね? そうだ。」
何時にない落ち着かない足の運びで教室を飛び出すと、何時ものところへと脱兎のごとく走り出した。
「こら、教室では走らない!」とある教師は怒鳴り掛けて、その対象が普段は大人っぽい啓子であることを報されて驚きを隠さなかった。
――――きっと、あおいったら有希江姉ざんに叱られているんだわ。現場を押さえてとっちめてやる!
まるで3人目の姉になったつもりだった。上履きのゴムが床に突き刺さりそうな勢いで目標まで駈け抜けた。
「あら、啓子ちゃん ――――」
「有希江姉さん ――――」
角を曲がったところで長い廊下を介して、ふたりは互いを確認し終えた。
「よう」
「また、啓子が何か、しでかしたの?」
二人の間に通わされる空気は、一種特有のものがある。それはかつてのあおいさえ入れそうにないくらいに壁が厚い空間だった。
「ああ、忘れ物さ、それもこの子が忘れそうにないものなのよ。驚きよね」
有希江は、あおいの肩に手を回した。思わず身体を硬くするが、それは啓子には伝わらない。今、彼女はそれどころではないのである。
「何を忘れたの?」
その口調は、とうてい年上に対して行われるニュアンスではない。何か、同胞に対するような、もっと違った見方をすれば年下に対する態度にも見られかねない。
もしも、この学校で彼女にそのような態度をする学園生がいたならば、よほどの勇気の持ち主である。きっと一睨みされて、退散してしまうのが関の山だろう。
一方、有希江にしても、不思議な感覚をこの少女から受け取っていた。「姉さん」と呼ばれても、何故か妹のように感じない。
じっさいに妹ではないのだから、当然だと思われるかもしれない。だが、それは違う。姉妹のような深い親愛の関係を保ちながら、さいしょから、それは上下の関係ではなかった。目と目が合った瞬間から、深い信頼の情を感じ取った。まるで、すべてを受け止めてくれる大海のような錯覚を有希江は見たのである。当時は、さすがにプライドの高い有希江のこと、混乱したことは言うまでもない。それは、今でも継続中である。
それを追い払うように、有希江は口を開いた。
「この子、コレを忘れたのよ、こともあろうにね」
「ァ」
小さく叫び声を上げたあおいから弁当箱を奪い取ると、あおいの頭を軽く叩いたのである。
いたずらっ子ぽく笑う姉の顔は、少女に衝撃を与えた。
―――私よりも、好きなの?
どうして、「かわいい」と思わなかったのだろうか? その答えはこの世界の誰も出すことができないだろう。本人ですら、この時点では解答の伏線すら得ていない。
「好き」と「かわいい」ではニュアンスという点において重要な相違が存在するのだ。両者には大海が横たわっていると言って良い。地図的な立場から睥睨すれば、海峡程度の差異しかないように見えるが、いちど、着水してみればその広さが確認できるはずだ。
英仏海峡を思いだしてほしい。地図上からすれば今にも互いに触れてしまいそうな距離にあるが、じっさいに泳ぐとなれば話は別になるだろう。
さて、小学生と高校生。たがが4,5年の違いになるが、30歳と35歳の違いとは、自ずから性格が異なる。その両者に間に横たわる海峡には、英仏海峡ほどの差異もないとすら見受けられる。すこしでも、手を伸ばせば触れてしまうほどに近い。あおいは、そんな両者に嫉妬した。啓子だけにではない。有希江に、もである。
「あおい、何を狐に摘まれたような顔をしているのよ、初等部には狐なんていたっけ、姉ちゃんがいたころにはいなかったわ」
かつてと変わらない表情を見せる有希江。あおいは、どうやって返したらわからずに、いっしゅんだけ戸惑ったが、すぐに、過去のテープを巻き戻してみた。
「・・・・・・・・・・・それって何十年まえ・・・です、じゃない?」
カカと笑った姉は、小憎い冗談を言った妹に親愛の情を示した。要するに、妹にガバっと抱きついたのである。端からみれば、仲の良い姉妹それ以外には見えない。しかしながら、啓子はそうは見なかった。あおいの受け答えに何やらふしんなものを見て取ったのである。
―――――あおいちゃん?
啓子は、とつぜん鳴り始めたチャイムの音に、巨大なダムの門が閉じる光景を思い浮かべた。それが、ギロチンの刃が落ちる映像にも見えたのはどういうわけだろうか。
「有希江姉さん ――」
「何?」
有希江の笑顔に、啓子は危ういものを感じた。しかし、その具体的な内容を摑むことはできない。その面はゆい思いは、しぜんに少女の顔を曇らせた。
しかし、その曇りを押し払うように、掌を向けた。まるでその白い輝きがいっきょに天候を好転させるかのように。
「じゃあ、また」
「オッケー」
有希江は、にこやかに啓子に視線を返した。一方、あおいは、複雑な気持ちをさらなる迷宮へと追い込むだけだった。本来ならば自分に与えられるはずの笑顔が、自分を通り越して啓子へと向かっている。
ここは本当に、自分が生まれて育った世界なのだろうか。何かの弾みで別の世界へと足を踏み入れてしまったのではないだろうか。あるいは、自分はここにいない人間なのかもしれない。単なる造物主の錯覚か思い違いにすぎないのかもしれない。
もしも、かれが正気を取り戻した暁には、正真正銘消え失せることになる。みんなの記憶からも消え去っていくことだろう。榊あおいなどという人間は、最初からいなかったことになるのだ。
となれば、いじめられている今の状況は、まだしも幸福だと言えるのかもしれない。あおいは、神さまが正気を取り戻すことを怖れた。いや、もっと言うならば、意識を失ってほしかった。そうすれば、元の世界に戻れるかもしれない。あの幸せな日々に居を戻せるかもしれない。
股間の中に残された異物のことも忘れて、あおいは夢想の世界へと翼をはためかせていた。それを現実の世界へと引き戻したのは、啓子の一撃だった。
肩を軽く叩いただけである。
「ほら、何してるのよ、もうすぐ授業だよ」
「ぁひい・・・・」
「あおい?」
啓子は、もちろん、元気のないあおいに喝を与えるために行ったのだ。
しかし、それはあおいの身体に埋め込まれたバイブレータのスイッチをオンにするだけだった。もちろん、じっさいにそのおぞましい機械が仕込まれているわけではない。有希江は望むだろうが、少女の肩にそのボタンが設置されているわけでもない。身体に与える微弱な刺激があおいの股間を直撃し、内部のものを密かに、攪拌したのである。
「ぁあああう・・・・・・・」
ほんらいならば、存在しない神経に少女は困惑させられた。ここには、啓子がいる。そして、教師や学園生が廊下を歩いている。
ここは公的なばしょであり、着用している制服は彼らにそれを暗に命じている。それは当然のことながら、自分にも当てはまるはずだ。それなのに、厳粛であるべき学校で、自分はこんなハレンチな感覚に呻いている。あおいは消えたくなった。さきほどの思いを否定するような結論。自分はどんなにいじめられることになっても、存在していたい、生きていたいと希ったわけではなかったか。
足をふらつかせながら、教室へと向かう。その間、啓子と何を話したのかよく憶えていない。彼女が弁当を忘れて、有希江に持ってこさせたことを、啓子に笑われていたらしい。彼女の罪のない笑声が耳にこびりついている。
これまで、なんども振りかけられた友情と諧謔に満ちた耳に心地よい声であった。
しかし、今となっては股間の異物を震わせる声や足音たちと変わらない。けたたましい児童たちの笑顔や声、それに足音は、あおいを脅かす。それらは、束となって少女の幼い官能を刺激する。
そして、そのひとつひとつにいちいち反応してはビクつく。啓子は、その様子を訝しげに見ながらも何も出来ずに自分の無力さを実感させられるのだった。それを打ち消すために、少女が行ったことは、あおいにイライラをぶつけることだった。親友がどんなにヒドイ目にあっているのか知らない少女は、容赦なく振り上げた木刀を打ち据えるのだった。
「いい加減にしなさいよ! 聞いているの?!」
「うるさいなあ、具合が悪いの! 見ててわからないの!」
あおいは、残されたエネルギーを駆使して、かつて持っていた元気を見せつけようとした。啓子は、それを見抜けずにかまえて承けようとする。
「じゃあ、コレは要らないよね、私が食べてあげる!」
「ぁ、何を!?」
あらよあらよと、言ううちにあおいが持っていた弁当を、啓子は奪ってしまった。あおいは必死に手を伸ばすが、取られまいと弁当を振るので摑めない。掌の珠を奪われた怒りを爆発させて奪い返そうとするが、その動きが自らの股間を直撃した。
「ッゥアアア・・・・あう」
「あおいちゃん?」
人の痛みを知るというのは、本質的には不可能である。しかし、それをしたいと思うのは、心ある人間の悲しい性質である。我に帰ってた啓子は、卵を割らずに黄身を手に取ろうとしていた。もどかしい思いに苛立ち、その持って行きようのないエネルギーを、啓子もまた、あおいの官能に似た振動に身を悶えさせるのだった。









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