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『由加里 74』
 神崎祐介は物陰で震えていた。事もあろうに、この豪毅な男が由加里の泣き声を聞いて股間を縮み上がらせていたのである。
 はじめ、祐介はいつものように威勢を轟かせるはずだった。誠二と太一郎などという小物は、祐介が一睨みするだけで世界の塵と化すはずだった。しかしながら、ふたりに責め立てられて許しを懇願する少女の声を聞いたとたんに、気を萎えさせてしまったのである。   
 もはや、かつての祐介の勇名は地に落ちたと言ってもいい。ただし、この場に誰もいないのでことさら風潮されることもないが、いちばんそれを許さないのは、祐介自身のプライドなのである。かと言って、いちど縮んでしまったものは簡単なことで復活するものではない。
 まさに、狼は無害な子犬に成りはててしまったということだろうか。
 見えない悪魔に羽交い締めにされているような状態に置かれているわけだが、そんな間にも旧部室内からは、少女のあられもない声が響いてくる。

「ヒィ・・・・・いやぁぁぁァァ」
 まるで、破られる作りたてのシュークリームのように、由加里は、無防備な状態に置かれている。誠二と太一郎のふたりはその柔らかな感触を十二分に楽しんでいる。今、自分たちの行為が歴とした犯罪であることは、もはや、現実認識の何処にも存在しない。ただ、与えられた本能に従って身体を動かしているだけなのだ。
 一方、由加里の視力が捕らえているものは、誠二と太一郎ではなかった。おびただしい涙のせいで著しく妨げられているが、確かに高田と金江とその背後にいる女子の影がはっきりと見えている。いや、それだけではない。

「アハハハ、いやらしい由加里チャンの大好きな男よ」
「男に、こういうことされるのが夢だったんでしょう!? このヘンタイ!!」
 ふたりの少女の声が高々に、由加里がヘンタイであることを宣言する。そして、ふたりの背後にいる女子たちもそれに諸手をあげて賛成する。

 だが、ここにひとつの疑問が生じる。ならばどうして照美とはるかではないのか。
 
 性的ないじめと言えば、ふたりの専売特許だったはずである。ちなみに原崎有紀と似鳥ぴあのはオプションにすぎない。言うなれば付属品ということだ。
 もしかしたら、高田と金江が由加里の性的な部分に手を出してくることは、少女の予想の範囲内だったのかもしれない。彼女らは、少女が嫌がることなら何でも嗅ぎ出すし、そこを容赦なく攻撃してくる。今、少女が何を嫌がっているか、ふたりなら摑んでいるだろう。
 
 それは、照美とはるかの行為とは一線を画するのである。ふたりの中には残酷ないじめの中にも、何か言葉にできない何かが隠されていた。それは単に浅薄な好奇心や嗜虐心から、少女を苛む高田や金江たちとは全く別の世界を形成しているのである。
 それには、サドとマゾの間に発生する特殊な『愛』と称されるものが関係しているのかもしれない。 それは、はるかにさんざん読まされた官能書籍から学ばされたことである。もしかしたら、こういう思いそのものがはるかによる洗脳かもしれない。

――――だけど、照美さんとはるかさんが恋しい!
 由加里は、限界を超える地獄に放り込まれながら思った。半分は彼女が捏造した世界である。

 ここは、2年3組の教室。

 そこは、かつて由加里が夢見た上級生の世界。新しい友人を含めて、新しい国を創造するはずだった。そこには今まで親しかった香奈見たちも当然加わっている。
 しかし、それは次の瞬間、音も立てずに崩れ落ちる。そして、クラスメート、由加里が、将来友人にしようと目論んでいた子たちのことだ、彼女らは手を繋ぐ代わりに笛や黒板消しを持って襲い掛かってくる。手、手、手。彼女らは、由加里を打ち据えるために使っているのだ。それは、あくまで少女と友情を紡ぐための道具だと思っていたのに・・・・・。
 かくて、少女の夢想はシャボン玉のように消え去り、そのかわりに、悪夢のような現実が幕を上げることになった。
 それが、由加里が今、立たされている舞台である。

 この部室は、それが出張でもしているのであろうか。それとも何処であっても由加里をいじめるために天が舞台として提供しようというのか。ならば、時間と時を選ばずに、いじめっ子たちは由加里を苛むことになる。
――――そうだわ、幼稚園でも辱めを受けたのだわ。それもあんな小さな子たちまで使って・・・・・・・・・・。
 あのときは照美でさえ唖然としていた。
 よりによって、彼女を愛しているなどという錯覚に陥ったのだ。
 確かに高田や金江のような連中に比べたら、照美とはるかは、人間として根本的につくりがちがうだろう。しかし、それが何だというのだ。今まで彼女たちにされたことと言えば、・・・・・。
いや、今、彼女が体面しなくてはならないのは、別のことだ。

 塚本誠二と南斗太一郎。
 
 たとえ、ふたりが誰かの操り人形にすぎないとしても、由加里が相手にしなくてはならないのは、この顔のない男子なのである。
 そう思うと自ずからやるべきことはわかってくる。
「イヤ! 離して!!」
「・・・・・・・・・・・!?」
「・・・・・・・・?!」
 由加里が発したエネルギーの発露に、ふたりは戦いた。今の今まで従順な奴隷にすぎなかった少女が反撃をはじめたのである。それは物理的な力によるものではなかったが、ふたりの少年に痛みの錯覚を感じさせるほどに怒気が含まれていたのである。
 だから、彼らは反射的に手を離した。その仕草が何を意味するのかわからなかった。しかしながら、時間を置くとそれが自分たちが元々持っている罪悪感であることに気づいた。思わず我に帰った。そのときに見えたのはそれぞれの母親か父親の肖像だったかもしれない。
「う!?」
「うう?」
 しかし、その像の中心にらんらんと光っていたのは、由加里の瞳だった。
 普段、可愛らしく優しげに光を湛えている目には、あきらかに意思の光が見て取れる。完全に無力なはずの少女にそれが力を与えているのか。涙がその輝きに彩りを添えている。
 本来ならばそれは本人の無力さを象徴するはずなのに、かえって美しさと強さを増す働きを為すとはどういうことだろう。
 誠二と太一郎は、しかし、それを理解するために反芻する余裕すら与えられなかった。背後のドアがものすごい勢いで蹴倒されたのである。年代物とあって、壊れ方は凄まじかった。たいした力が与えられなくても、簡単に壊れたはずだ。
 そんな半壊品を完全に破壊したのが、相当な猛者だったからこそ、その過程は見る人にただならぬ恐怖を与えたのである。

「うぎ!?」
「ぃぐぅあ?」
 少年たちが、何語を使っていようとも、それが意味するところは明らかだった。本能的に身の危険を感じたのである。しかし、それは扉の破壊力の如何に直接関係ない。扉の破壊とほぼ同時に視覚と聴覚によって、得られた情報がこの世で最も恐るべき相手を指し示していたからだ。
 
 神崎祐介。

 子犬は狼に戻ったのである。
 その後、何が起こったのか描写するまでもあるまい。
しかし、特筆しておきたいことがある。それは、いったい何がキーとなってそれが引き起こされたのか。その理由についてである。
 実は由加里の怒気がキーとなって、祐介は本来の自分を取り戻したのだった。
この華奢な少女に何が秘められているのか、それはその場にいた3人には最後まで理解できないことだった。
 だが、もっともそれを理解していないのは西宮由加里そのひとであろう。少女は、自分のことをとるに足らない人間だと思っている。それどころか、この世でもっとも汚らわしい存在とさえ思っている。そして、それが度重なるいじめによって引き起こされた ―――ということに対してさえ、思いが向かわない。
 すべて自分のせいにしているのだ。自分の躰からこの世のものとは思えない悪臭が放たれている。それは、自分の精神が腐っているからであり、本当にどうしようもない人間だからである。そのことは、少女が誰にも愛される資格がないことを同時に表している。

 困ったことに、少女は目の前に提示された方程式を鵜呑みにしてしまったことである。まったく疑義を持たなかった。
 もちろん、方程式を示したのはいじめっ子たちである。
 その瞬間、少女は彼女らの意のままになる奴隷に身を落としたのだった。

 ―――――――消灯?
 由加里は、ノートパソコンの電源を落とすと、窓の外を見遣った。巨大病院を囲うように立ち木が並んでいる。それらは薄闇の中ではどのような樹木なのか、はっきりとしない。ただ、古代の巨大恐竜のような像を晒しているだけである。
 長い首の部分が男子の陰茎を思い起こさせる。それは石膏像のノッペリとした様子を彷彿とさせた。少女の目には、それが彼女じしんの自画像に見えた。何もない、のっぺらぼうな彼女じしん。それはまさに由加里そのものだった。
 そして、明るい方に視線を落とすと、そこにはおあつらえ向きに設置された外灯が一組のカップルを照らし出していた。まるで映画の1シーンのような光景に、少女は理由のない怒りを憶えた。その情景が美しければ美しいほどに灰皿でも投げつけたい気持になっていくのだった。あいにくとここは病院なので、手短に灰皿があるわけでもなく、またそのカップルまでの距離を考えても、少女の筋力によってそれが成功するとはとうてい思えなかった。

―――――いったい、どういう人たちかしら?こんな時間に、門も閉まっているのに・・・・病院関係者かしら? 例えば、医者と看護婦とか・・・・・。
そこまで考えて思わず噴き出してしまった。何て、陳腐な考えなのだろう。少女は。自嘲できる余裕を取り戻したところで、就寝することにした。
 ベッドに仰向けになって目を閉じる。その当たり前の行為がそこはかとない恐怖を帯びていることに気づいた。

――――もしかしたら、明日の朝日が見られないかもしれない・・・・・・ま、それでもいいわ。
 少女は、闇の中に戻っていく。人間は、闇から生まれたのである。だから、寝ることともうひとつの意味は、闇に戻っていくことである。
 ちなみに、それは別名、死とも呼ばれる。
 
 少女は、彼女が心から欲して止まない死にたいして、接吻しながら目を閉じた。


 そのころ、時間的には、いささか、そして空間的にはかなり離れたところで2対のテニスラケットが軽快な音を立てていた。もしも、それを握りしめていれば、幸せを摑めると思っていたのは由加里である。
 その由加里は、その手触りも忘れて死出の旅に発っている。いったいどんな夢を見ているのだろう。ここにいるテニスプレイヤーに知るよしはない。
 鋳崎はるかと鈴木ゆららのふたりが、この一面を独占しているカップルである。言うまでもなくふたりとも同年齢なわけだが、見る人のほとんど、いや、ほぼ全員がそれを言い当てることはないだろう。 はるかは、170センチを優に超えているわけだから、互いの間に横たわる身長差はさることながら、ちょっとした仕草などを見比べてみても、同年齢とはとても見えない。どちらが大人に見えるかは、言及するまでもないだろう。
―――――――。
 力量もあえて言う必要はないだろう。はるかのそれに比べたら、ゆららなどは児戯以下だ。しかし、何とはなしにテニスを楽しんでいることは確かだった。何度も失敗しながら、はるかは声を荒げることもなく、顔を顰めることもない。

「意外ね、あの子に教師の天分があるとは思わなかった」
 ふいに、観客のひとりが声帯を震わせた。そして ――――。
「い、今だけですよ ―――」
 もうひとりの観客の声は、いささか震えている。
―――あいつ、この一ヶ月のストレスを全部、私にぶつけるつもりだわ・・・・・。
 照美は声にならない声で、嘆きの台詞を夜に向かって聞かせた。しかし、いつわりの満月をはじめ、誰も彼女に同情しようとしない。それどころか、誘蛾灯などはコトコトと笑っているように見えた。それは虫たちの死のダンスだったのだが、今の照美にとってはどうでもいいことだった。
並んで座っている観客は2名。
 前者は、西沢あゆみであり、もう片方は海崎照美である。両者の間には10歳ほどの年齢差がある。
 「照美さんは、 ――――」
「あ、ゆららちゃん!」
 あゆみは自分の言葉が切断されたことに腹を立てた風でもなかった。視界に、照美の尻が見えた。その筋肉の付き方は、アスリートのそれとはちがっていたが、たしかにある程度鍛えているのが見て取れた。それに ―――似ている。
 
 あゆみが小さい頃からいつも追いかけていた誰かに酷似しているのだ。
――――――――。
 ふいに襲ってきた夢想から醒めてみると、倒れてしまったゆららを解放しているはるかと照美の姿が見えた。まるで重病人のように苦しい息の下で虫の声を出しているようすだが、べつに病気というわけもでもないらしい。単に、馴れない運動を急にやったために息を切らしてしまった ―――――ということにすぎないだろう。しかし、水分補給は重要だ。夜ということで、昼に比べれば気温は低いが、かならずしもそれが熱中症の必要条件というわけではない。

「水分補給よ ――――」
 あゆみはすくっと立ち上がると、持っていたスポーツドリンクを差し出した。
「さてと、見せてもらいましょうか?」
 それはあゆみの台詞だったことは、照美を驚かせた。
「へ?」
 ゆららを介抱していた照美は、魂を奪われたような顔をした。じっさいに何処かの宇宙に漂っていたい気持になったが、現実世界は彼女を手放そうとはしなかった。

「さ、やるか、あゆみさん、彼女をお願い。ほら、照美、ラケットを早くもってこいよ」
 はるかはこともなげに言う。彼女は、まったく息をしていないようにすら見える。ゆららが相手ならば、はるかにとってみればウオーミングアップにすらならないと見える。これ見よがしに準備運動を始めたのである。
 ゆららは、水分補給を終えると、椅子の上に猫のようにぐちゃとなっていた。しかし、あゆみを認めるとすぐに姿勢を正した。
「あら、いいのよ」
「いえ、いいです」

 可愛らしく会釈を返すゆららを見ながら思った。照美とはるかが普通でない ――――のだと、中2としてはこちらの方が平均に近いのかもしれない。だが、彼女がひときわ幼く見えることは確かだったが、だからこそふたりと比べると失礼ながら小学生に見まごうということもあり得たのである。
「鋳崎さんさすがですね、さっきまでやってたのに」
――――――あいつなら準備運動にもならなかったさ。
 そうは言わなかったが、見えないようにして表情を崩した。
「照美 ――の腕とやらを見せてもらおうか ――」
 ぬかったと思った。ゆららが不思議そうに見ていたからだ。思わず口走ってしまったミスを押し隠すように言葉を続けた。
「ほら、始まる。確かに素人だな、無駄がありすぎる ――――」
 ゆららは、驚いた。照美のサーヴィスは、まるですべての動きが計算され尽くしたかのように美しかったからだ。それにボールが奏でる音は空気を裂くように強烈だったのだ。
―――プロの目にはそう見えるのね。
 少女の胸を涌かせたのは、照美の動き以上にはるかのそれが人間業に見えなかったからだ。もちろん、テレビで世界レベルの選手のプレイを視たことはあるが、それを本当の視力で捕らえるのでは 雲泥の差がある。空気の振動は直接伝わる。それは肌と肌で会話をしているようなものだ。電波を通じて手触りや肌触りまで伝達することはできないだろう。
 まさに感嘆の一言だが、それ以上に少女の胸を突き刺したものがある。それは、西沢あゆみそのものだった。
 彼女が醸し出す空気そのものが常軌を逸していた。その視線は膠着し、手指は心なしか小刻みに震えているではないか。
 
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