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『マザーエルザの物語・終章 34』


 井上順。
 言わずと知れた帰化画家である。かつては画家を目指した予備校講師が、いちどならず憧れた対象でもある。ちょうど彼は孫弟子に当たる。だから、直接見知っているわけではないが、その画業の精神をあるていどは受け就いているとは思っているのだ。

―――どうですか?

 そうは言わなかったが、たまたま知人に紹介された少女は、無言でそう語っているように見えた。早く、何事かコメントせねばならない。だが、適切な言葉が頭に浮かばない。 
 単に、頭が良いだけではなく、非常にセンスが光る少女である。いい加減なことを言ったら、すぐにばれてしまうだろう。ここは本当のことを言わねばならない。
 さすがに、自分の娘よりも年下に言う台詞ではなかったが、覚悟を決めることにした。

「赤木さん、もはや、私の手にあまるようだ、他の先生のところに行かないか」
「じゃあ、もう芸大に受かるレベルに達したということですか?」
「いや、そういう意味じゃないんだ」
 かぶりを振りながら言葉を吐く。
「ねえ、この人の絵どう思う?」
 困った視線を部屋中に照射しているうちに、止まったのが井上順の作品だった。同時に、啓子とあおいに目もそれに向かう。
「・・・・・・・・・・・」

「ブーゲンビリアみたい」
 あおいの感想は講師の理解を超えていた。
「ブーゲンビリアって」
 しかし、機先を制したのは画家志望の少女だった。
「沖縄によく咲いている花よ、そんなに華やかには見えないけど、この人」
「どんな感じに見える?」
 あおいの言葉によって、何か絆されるところがあったのか、啓子は感想を述べ始めた。
「何で、こんなに年を食っているのかしら」
「それは年齢よりも年取ってみえるということかい」
 講師は顎を撫でながら訊いた。
「そうかもしれない、この時、もっと若かったはずなのに・・・・・・・」

―――若かった?
 
 まるで見てきたような言い方に、講師は驚きを隠せなかった。何か、彼女を中心として、あるいは恒星として、一個の恒星系を構成しているように思えた。
 この静謐な部屋そのものが、一個の世界を為している。あるいは、ここだけに世界が存在するようにすら思える。
「だってさ ―――」
 あおいが即座にラメ色の声を出した。
 
――――いや、違う、この部屋には二つの太陽がある。

 すなわち、恒星系は恒星系でも、それは多重星系であり、それは二つの太陽があり、小さい方が大きい方を回る。
この場合は、啓子を中心としてあおいが回っているように見えた。どちらにしろ、この部屋の操縦権はこの二人の少女によって握られている。
 そのことだけは確かに思えた。あきらかに二人は講師の目にはまぶしい。こんな幼い少女たちに、まばゆい光を感じるのは何故か。
 とりわけて、彼はペドファイルということではなく、あるいは、子供をモティーフとする芸術家でもなかった。それなのに、目の前の二人の少女はやけ魅力的に見える。
 彼女らは何やら語り合っている。だが、その具体的な声は聞こえてこない。なんて非現実的な光景だろう。これは幻影なのだろうか。講師の理性がそう主張しはじめた。しかしながら、彼の別の人格がそれに反対意見を述べる。

―――お前たちは何者なんだ。やはり、あの人に頼むしかない。

 講師は心に筆で文字を書くと声を張り上げた。
「ちょっと、赤木さん、聞いてくれる?」
「なんですか?」
 まるでオペラのリハーサル中に音楽を止められた女優のように、不満という文字を顔いっぱいに書いた。
「井上明宏という画家を知っているかな、この画家の弟子にあたる人だけど、彼は私の師匠にあたるんだ」
 領土を奪われないうちに一気に文字を書き終えた。
「どうして、そんな人を紹介なさるんですか」
「言ったろう、私の手に余ると」
 いつもながら年齢を超越した言い方に戸惑う。この少女と話していると彼女が小学生であることを忘れてしまう。
 井上順を直接知っている彼ならば、よく御してくれるだろう。

「ここに住所があるから言ってごらん、先生には私から連絡しておくから」
「アトリエを開いておられるんですか、そんな画家が私みたいな小娘を相手にしてくださるのでしょうか」
「そのスケッチブックを持っていけばね、それに弟子である私が口添えをしておくから」

 あおいは1人取り残されたような気がした。二人の会話にとてもついて行けなかったのである。
 例え、移り気の多い性格の彼女でなくても、同い年くらいの子供ならば、ひどい退屈のために酸欠に陥ってしまうことだろう。
 彼女の場合、自分のあられもない姿を描いた絵が講師に見られないように注意を払ったいために、飽きが来るのに時間がかかったという特殊なケースにすぎない。もしも、そういう事由がなければ、とっくに居眠りくらいはじめていたかもしれない。
 しかし、そんなのんびりした少女の時間を風船を割るようにして引き裂いたのは、携帯の着信音だった。その名前が網膜の像を結んだとき、さーと血の気が引く音がした。
 ママという2文字が少女の心臓に鉄杭を打った。それが少女にとって過去になってしまった牧歌的な時間を思い起こさせるために、筆舌に尽くしがたい淋しさをも同時に感じるのだった。

「はい ・・・・」
 場所柄もわきまえずに携帯に舌を伸ばすのは、あおいが啓子とは違う証左であろう。後者ならば、一言断ってから少し離れてから対話を始めるにちがいない。
 しかしながら、友人にそのようなふるまいができないのは、生来の性格が由来しているのであろう ――――ごく最近までそのような見方をしてきた啓子だが、かつては見せなかった青ざめた表情で母親を話す彼女を見ていると、自分の考えを改めてなくてはいけないと思った。

 講師はごく常識的なことを言って、この場の幕を降ろそうとした。
「そろそろ、二人とも時間だから帰ったらどうかな、おうちの人も心配するだろうし ―――」
 啓子は、講師の意図を正確に読んでいたが、あえて、それに乗ることにした。あおいの態度の豹変が気になったし、彼女じしん、井上明宏という画家に興味を持ったからだ。
 母親たちに井上順展を身に連れて行ってもらったことが、その判断に寄与していた。あれから、画集などで彼の絵に親しんできたが、確かに、他の画家からは感じられない何かを感じていた。

―――ただ、ひたすら一人の女性だけを書き続けていた画家か。

 その絵にデジャブーに似た感覚を得ていた。

―――作者は、彼女が好きだっただけじゃない。きっと、憎んでいる。自分に対してやった仕打ちが許せないんだ。 え?この感情は・・・!?

  画家志望の少女は背後を見た。壁を頼るにようにして頼りなく歩くあおいがいた。
「はやくしなよ、おばさん怒るよ!」
 ビクッっと、親友は肩を強ばらせた。まるで傷に塩を塗られたかのような反応だ。何故か、そんな姿を見ても、同情らしき思いは浮かんでこない。むしろ、敵意や恨みに似た感情がわき起こった。
 彼女の華奢な手首を摑むと身体を引きずり始めた。

「はやくしなさいよ!!」
「い、痛い!! 啓子ちゃ・・・・・う」
 肩を抜かれると思った。ときおり見せる親友の強引さは何を意味するのだろう。あおいは頼もしさよりもむしろ恐怖を感じることがおおい。
「どうしたのよ、啓子ちゃん、痛いよ!」
 気がつくと、黄昏にやられたイチョウが一斉に見下ろしていた。
「早く、帰らないとまずいんだろう」
「大丈夫よ、いじめられたりしないから ――」
「いじめ?」
 啓子は目を見張った。あおいは自分が何を口走ったのかも忘れて、自分の右腕の心配を続けている。
「痛いったら、いいかげんしてよ!!」
「・・・・・・・・」
 腕を払われた啓子はあおいの剣幕に、さきほどの台詞と相まって、驚きを隠せなくなった。
「ちょっと、なんで黙っているのよ!」
「行こう ――」
 まるで生まれてからの記憶をすべて失ったかのように、啓子はオレンジ色に染まった街に足を踏み入れる。
「ねえ、啓子ちゃん」
「・・・・・・・・・」
 あやうく赤信号に気づかないところだった。車に轢かれそうになった啓子をすんでのところで救ったのはあおいだった。
「気をつけてよ、危ないじゃない。いつもならうるさく言うのは啓子ちゃんなのに、どうしたって言うのよ!?」
「あおい」
「?」
 よほどのことがあっても、自分を呼び捨てにすることはなかった。魂を高層マンションとイチョウに奪われてしまったとでも言うのだろうか。

「どうしたの? 啓子ちゃん? 気持ち悪いよ」
「気持ち悪い? 私が気持ち悪いの?」
 ちょうど、逆ギレされる結果になったあおいは、面食らったようすで画家志望の少女を観察しはじめた。はじめて見る対象に近づくために、まずすべきことは、この他動詞につきる。目の前の少女との邂逅は、あおいにとってまさに初体験と表記すべき現象だったのである。
 啓子が何をはじめるのか、固唾を呑んで待つことにした。はたして、親友は驚くべきことを言い始めた。
「あおいは啓子のことを嫌いなんだ!」
「・・・・・・・・・・・・・!?」
 いくら脳内検索を行っても、親友の幼児じみた言いように対して沈黙するだけだ。言葉が見付からないのだ。

 そもそも、彼女が自分のことを『啓子』などと呼んだ記憶がない。そのようなことははしたないことだと、彼女の母親が言っているのを聞いたことがある。当時、あおいにもそのような癖があって窘められたのである。実母に何度叱られても治すことができなかった悪癖が、鶴の一声で改善されてしまったわけだ。
「答えてよ、嫌いなの?」
「そんなことないよ、好きだよ・・・・・・・」
 そんな答えでは納得できないようで、さらに畳み掛けてくる。
「じゃあ、愛していないの?」
「あいして?」
  その一言は、あおいにとって存在すら知らない外国語のように聞こえた。漱石が I love you. を「ああ、星が綺麗だね」と訳したらしいが、きっとそのような心持ちだったのだろう。
 咄嗟にはその意味を計りかねた。
「愛していないんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・」
 彼女の真珠のような唇から迸った言葉は、あおいの脳内の酸素を水素に入れ替えることに成功していた。
「じゃあ、キスしてよ」
 そして、啓子は点火したマッチを親友の頭に持っていったのである。




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