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『新釈 氷点2009 11』

 辻口陽子が帰宅したのは昼食を母親と取った後だった。本来ならば、仲のいい母娘がどういう理由からか始終無言を通していた。そのレストランは辻口家に馴染みの店だったために、普段と違う二人の様子を目の当たりにして店主は不思議に眺めたものである。
 二人の頭の中はまったく違う考えが支配していた。母親は娘に対する憎しみと愛に引き裂かれ、娘は、かつて、経験したことのない羞恥心に身を焼かれて、まさに自愛の最中だったのである。
 だから、二人は同じレストランにいようとも、アフリカとアラスカに別れているのも同様だった。

 だが、辻口家の三女は帰宅して、室内用のスリッパに右足を挿入したとたんに、母親に対して自己主張するという、彼女の性向からすれば実に革命的な出来事を起こした。
 母親の背中に向けて言葉の矢を放ったのである。それはひとつの壁に見えた。しかも、シベリアにあるという強制収容所の壁のようにも見えた。しかし、思い切って声を張り上げた。なけなしの勇気を絞り出したのである。

「お、お母さま、もう、あの先生はイヤです!」
「・・・・・・・・・・・」
 長崎城主婦人は静かにふり返った。しかしながら、陽子にとってみれば完全武装の軍人よりも威厳と迫力を感じることができた。
「何ですって?」
「お、お母さま・・・・・」
 夏枝は一冊本を大事そうにでもなく両手で抱えている。何気なく見えたその題名と著者の氏名が、陽子に恐怖を植え付けた。
『夜尿症と精神療法』小松崎郁子著。
 
 その中でも精神の2文字が、辻口家の三女の心に言いしれぬ恐怖を含んだ闇をしのばせる。精神病院を連想させる。それは少女にとって刑務所と同義である。それに係わる人間に係わることすら、高圧電流を直接心臓に当てられるような痛みを感じる。
「お、お母さま・・・・」
 いつしか、少女は涙ぐんでいた。哀願という言葉がまさに相応しい。しかし、母親はにべもなく、言い渡した。
「いいえ、だめよ、先輩が何よりも的確だと思うわ」
「だけど、私はお漏らしをしたわけじゃ・・・ヒ!?」
 ようやく芽吹いたばかりの反抗心は、母親の美しすぎる手によって阻まれた。陽子のかたちのいい頬に張り手が炸裂したのである。
「ウウ・・・・・・・ウウ・ウ・ウ?!」
 優しい、いや、あんなに優しかったはずの母親の急激な変容に、陽子は自分の体液がすべて急速冷凍されてしまった。
「お、お母さま・・・・」
「わかったわね?」
「・・・・・・」
「返事は!?」
「ハイ・・・・」
 それらのやり取りがあって、陽子はようやく首を縦に振った。もしも、このまま拒否しつづけたら、もう二度と母親から笑いかけてもらえないと思ったのである。しかし、もう陽子の方に一度も振り向くことなく自室に戻っていった。
 辻口家の三女は、その背中に声をかけることすらできずに佇むだけだった。泣いたらいいのか、笑ったらいいのか、大変判断に苦労する。いや、感情という土台そのものが崩れ去っていくような気がした。
 そんな時に、彼女の肩を叩いたものがいた。
 ちょうど、学校から帰宅した薫子である。

「きゃ・・・・」
「どうしたの? まるで痴漢にあった女の子みたいな顔をして ―――」

――――私は女の子ですわ。

 辻口家の次女は、そのよう返ってくることを期待した。
そうしたら、こう答えてやるつもりなのだ。

――――まあ、姉を痴漢呼ばわりするなんて、なんて非道い妹かしら?

 しかし、薫子が見たものは、ポロポロと涙を流す妹だった。可愛らしい妹の変容に驚いた姉はその理由を問わずにはいられない。
「一体、何があったの?」
「・・・・・・・・・・ウウ」
「陽子?」
「・・うう・・うお、お姉様・・・ウウ」
 30秒ほどして得られたのは、妹の自分を呼ぶ声だけだった。
「とにかく、部屋に入りなさい」
「だ、大丈夫だから・・」
「陽子!」
 妹の二の腕を捉えた瞬間、理由を質されると予感したのか、彼女は涙を拭って自室に逃げ込んでしまった。この時、妹が自分に対していつものように敬語を使わなかったことに、ついに気づかなかった。だが、妹の変化を無意識のうちに受け取っていたことは事実である。それを感情に表すのに、方頬の筋肉を微かに動かすことしかしなかった。

―――たしか、ママと病院に行ったはず。

 薫子は母親を捜しに家の奥へと足を速めた。
はたして、母親は広いリビングにいた。
 彼女が尊敬して止まない母親は、優雅な仕草でハードカバーの本を操りながら、ソファに身体をうずめていた。
「探したのよ、ママ」
「薫子・・・・」
 辻口家の長女は驚いた。いつの間にか10才も老け込んでしまったかのように思えたからだ。一体、病院で何があったのというだろう。
「陽子に何があったのよ」
だが、口を開くといつもの美しい母に戻っていた。だが、安心する暇もなく彼女の口から予想だにしない言葉が飛び出てきた。
「薫子、ねえ、あなたは私の娘よね」
「何を当たり前のことを言っているのよ!」
しっかりしてよ!という気持で言ってみた。
「ねえ、見て・・・・」
 そう言って震える手で一枚の写真を指しだしてきた。なんと、あの母親の目には涙までが滲んでいるではないか。
 その震える手が示した写真は、薫子の目にはもはや過去そのものでしかなかった。

「ルリ子・・・・」
「そうよ、この子も私の娘よ・・・・・」
「ママ!?」
「薫子、どうして、そんな目でママを見るの?」
 いつの間にか、顔を奇妙なかたちに歪めていたようだ。母親の前では感情のコントロールがいまくいかなくなって当然だろう。
 常に自制をモットーにしている彼女が立てこもる城の一角が崩れた。
 夏枝は矛先を替えようとしているようだ。
「薫子、あなたは私によく似てる。確かに、私の娘だわ!」
「マ、ママ、止めて・・・・・・」
 夏枝はその上品な手の中に娘の顔を収めると、自分の眼前に近づけた。母親特有の香水の匂いが嗅覚神経を刺激する。においというものは、五感の中でもごく原始的な部類に属する。それは自ずと幼い記憶を想起させる。
その香水は、長女が産まれる前から使っていたものである。だから、イコール母親という図式が彼女の中に生まれていた。
 間近にある母の薫りは、かつて、彼女が可愛がっていたルリ子のことを否応なしに想い出させる。だが、彼女のイメージが完成する前に、自らそれを断ち切ることにした。
「ママ、陽子もママの娘でしょう!?」
「・・・・・・・・」

 夏枝は、鼻を摘まれたような顔をした。心なしかロンパリになった目は、無機質な光を放ち、その美しい顔をひとつの彫像に仕立てている。
「ママ?」
「・・・そうね」
 ただそう一言零しただけで娘から両手を話すと、すくっと立ち上がった。
「ママ・・・・・・・・・」
 まるで夢遊病者のように夏枝は立ち上がると、彼女が唯一の生きている娘だと認める薫子に背中を向けた。そして、キッチンへと消えていった。
 娘は声を再びかけたいと思ったが、処刑場に追い立てられる魔女のように肩を落として歩くその姿に、辻口家の長女はとてもそんな気にならなかった。
ふと彼女の目に入ってきた四角い箱がある。
それは、一冊の本だった。
『夜尿症と精神療法』小松崎郁子著。
「これは?」
 美少女はレンガと間違えそうな本を抱えると、ページを捲り始めた。

 一方、長崎城主婦人は、片隅にある買い物籠をひたすら睨んでいた。その籠に肉や野菜等々が盛られるのはその約一時間後のことである。それは家族の幸せを暗示しているはずだった。籠から飛び出たネギは、ランドセルから飛び出たリコーターに煮て、幸福の歌を歌うはずだった。
 その日も、あくまで表向きは、幸福な晩ご飯が始まっていた。
 その中心に辻口建造がドカっと座っている。本人はその気はないのだが、自然にそうなる。元来、建造は両家の坊ちゃんらしく鷹揚に育ったためか、一家の主人として威勢を貼ることを好かなかったが、妻である夏枝によって本人の知らないうちに、そのように仕立てられていった。言わば、洗脳ということができるだろう。
 高級な木材として有名すぎるくらいに名を馳せる、マホガニーの楕円形のテーブルの上に、美味しそうな湯気が立った料理がのっていく。設置された席は四つ。それは辻口家の不動のメンバーのはずである。
だが、まだそれが揃っていない。

「陽子はどうしたのかしら?」
「気分が悪くて寝ちゃったらしいよ」
 薫子の言葉が終わる前に、辻口家の末っ子が顔を出した。
 先ほどと打って変わって可愛らしい、元の彼女に戻っている。
 長崎城主は、外見には聖母マリアの仮面を被って、その実、心に鬼火を灯した。

―――なんて、憎らしい、図太い子かしら? もう、元に戻っちゃって!!

 だが、母親の観測はあくまでも表向きにすぎない、大変浅い洞察に留まっていた。
 表面上はいつもと変わらない可愛らしい笑顔を保ちながら、その実、5才の幼児の泣きじゃくった顔を隠匿していたのである。
 こうして、互いに仮面を被った母、娘の食事が始まった。
 今夜の主菜はビーフストロガノフ。
 白いパスタと焦げ茶色の牛肉のコントラストが食べる人の食欲をそそる。
「まあ、お母さま、美味しそう!」
 つい、この前ならば、母親を心から喜ばせそうな笑顔をばらまくと、両手を可愛らしい仕草で合わせた。
「さあ、いただきましょうよ」
 まず最初に建造が、試食のように口に料理を入れる。その結果、生まれる表情の変化は、今更だが、夏枝の料理の腕を証明するものである。
 それに気をよくしたわけではないが、二人の姉妹も同じ行動を取る。だが、その内面構造はまったく違っていた。
 ちなみ、三女がスプーンを料理に挿入し、かつ、自分の口腔に送る作業をまるでストップモーションのように、夏

 夏枝は目を皿にして事態を見つめていた。それに三女は気づかなかった。いや、気づく余裕はなかった。
「・・・・・・・・・!?」
 細心の注意を払って、陽子は自分の本心が外に漏れるのを防ごうとした。しかし、それは完全に行うことは不可能だったようである。
 それもそのはず、その理由を彼女は知っているのだから。
 夏枝。
 彼女が自らの意思によって、それを行ったのである。

 スプーンを口に入れたとたん、食べ物とは思えない味が口の中に広がった。予想だにしない塩味とこしょう、その他、聞いたこともない香料が一斉攻撃を仕掛けてきたために、少女の味覚神経を異常に刺激した。

――― 一体、何が起こったというのだろう。

 混乱は混乱を呼び、あくまで一瞬だけだが、少女は、自分がどのような名前で、自分が何処にいるのかという根本的な認識すら奪われてしまった。
 陽子の中で何が起こっているのか、熟知している夏枝はいとも簡単にこう言ってのけた。
「どうしたの? 陽子、美味しくない?」
「そ、そんなことないですよ、お母さま、とっても美味しい」
 夏枝の予想に反して、この娘は満面の笑みを浮かべて、母親に報いた。
 しかし、じっさいは、心が破裂しそうな思いを味わっていたのである。できることならば、恥も外聞もなく、母親にしがみついて抗議したかった。だが、そうしてしまったら、この事実を認めることになる。自分の料理の味がおかしいこと、そして、それが故意に行われたこと。

―――これは事故なのよ!きっと!!

 陽子はこう確信した。そうでなければ、今まで築いてきたものが一瞬で崩れてしまうように思えた。彼女にとって敬愛してやまない母親は、精神構造の柱のひとつを為すものだった。いや、大黒柱そのものだったのである。

―――これは何かの事故!きっと、そう!!変わらずに自分を愛してくれている! 絶対に!!

 辻口家の三女は、ひたすらにそれを祈らざるを得なかった。口腔内が腐ってしまいそうな苦痛と惨めさに堪え忍びながら・・・・・・。
 だが、同時に異様な感覚が脊髄に走るのを感じていた。

 それは ―――――。



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テーマ:官能小説 - ジャンル:アダルト

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